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  2001年 新年特集 「21世紀を農と共生の時代に
 
特別インタビュー

102歳の農業経済学者 近藤康男さんが語る
3世紀を生きて思う明日の日本農業
 
   インタビュアー 東京農工大学学長
 梶井 功
 
東京大学農学部教授などを歴任した近藤康男氏は1899年1月1日生まれ。この元旦に102歳を迎えた。明治・大正・昭和と長きにわたり一貫して農民の立場から農業問題を研究、数多くの提言をしてきた近藤氏は、日本農業経済学会の最年長会員であり現在も元気に読書と執筆に取り組んでいる。3世紀を生きた近藤氏の目に今の日本農業の姿はどう映り、どんな課題があるのか。新年号特別インタビューとして東京農工大学の梶井功学長がインタビューした。
拡大鏡を使って今も熱心に読書する (農文協図書館役員室で)
東大追放と戦後の農政 トップダウンの「農地改革」

 梶井 明けましておめでとうございます。この1日で3世紀を生きられたことになりますがいちばん思い出深いことからお聞かせください。

 近藤 やはり思想弾圧で東大から追放されて東亜研究所に移ったころのことですね。

 梶井 当時、総長事務取扱だった寺沢寛一先生は思想上のことで大学教授をクビにするのは以てのほかということで、近藤先生の問題を握りつぶしていたのですが、先生はそのことを知らずにいて、次の総長選挙のときに学部長の言うままに他の人に入れた。そうしたら寺沢先生は1票差で落選してしまった、と『一農政学徒の回想』に書かれていますね。

 近藤 そうそう、僕が寺沢先生に投じていれば状況は変わったわけです。

 梶井 やはり選挙のときには1票の行使を大事にしないといけないものですね。

 近藤 まったくだね(笑)。1票でも重要な影響を持ちます。

 梶井 先生の業績としてはなんといっても『農業経済論』が浮かびます。あの著書は初版は相当厚いものでしたが、思想弾圧のなかで、それを生きながらえさせるために、書き直して半分ほどのページ数にされましたね。そのときのお気持ちはどうだったんですか。

(こんどう・やすお) 明治32年1月1日生まれ。102歳。大正14年東京帝国大学農学部卒。母校で農業問題研究に取り組み、明治・大正・昭和・平成という動乱の20世紀を、農民の立場に立つ農業経済学者として偉大な学問的業績を残す。日本農業経済学会の最年長会員。「協同組合言論」「転換期の農業問題」「貧しさからの解放」など著作は50点余り。

 近藤 屈辱を感じながらも、しかし、理論的な骨格は残さなきゃいかんと思ってね。それで、東京高等農林、今のあなたの大学、農工大の図書館に日当たりのいい部屋があったから(笑)、そこで書き直した。2年ぐらいかかって、植民地支配の問題を削るなど苦心しました。

 梶井 その著書では地主制についも問題にされていたわけですが、戦後の農地改革では先生は中央農地委員会の委員なども務められて活躍されましたね。

 近藤 農地改革のときの農地の買収価格を賃貸価格の40〜45倍にすべきだという数字を出したのは僕が昭和14〜17年にやった田畑売買価格についての調査に基づいてでした。そういう意味じゃひとつ役に立ったかなと思っています。
 しかし、農地改革のあり方全体としては不満足であって、それを一口でいえば上からの改革だったということです。昭和22年の3月の何日までに、農地の買い上げ、売り渡しをやるということが決まってそのスケジュールに合わせて行われたんですね。本当は、3年も5年もかかるでしょうが、もう少し当事者、つまり、地主にも小作人にも、あるいは諸団体にも自分たちでやれることはやってもらうという形で改革が進めばよかったと思います。

 たとえば、私は、未墾地買収にともなって発生する離作料などは国が基準を決めるんじゃなくて、各県の農地委員会で決めることすればいいという意見を持っていたんです。県によっては大きく認められるところもあるし小さいところもできるが、違いがあってもいいと考えていたんですね。
 ところが、山田盛太郎さんが出した案は、中央農地委員会がきめた基準に基づいて改革を進めるというもので、結局その方針で整理されることになった。
 自分たちが努力して、あるいは喧嘩をしてでも改革を進めるんだということと、東京で決めたとおりにやるというのでは大変に違うんです。

 梶井 農地改革のあと、農地法がその改革を受け継ぐことになったわけですが、昨年は農業生産法人の一形態として株式会社も認められました。しかも、改正には付則があって5年後に見直すことになっているんですが、その趣旨は、どうも耕作者主義をやめるということを含みにしているようです。そうなると農地法の精神がずいぶん変わってくると思うんです。

 近藤 こういう問題が出てくるのも、基本的に上からの改革だったということが残っているからじゃないかと思うね。株式会社の進出がどこまで進んでいるか私は知りませんが、やっぱりだめだなあ、という感じです。
 当時、自分たちで勝ち取る農地改革が全く行われなかったかというと決して、そうじゃなかった。例は多くないけれど、長野のある村では農地は農民組合が中心になって管理していて、農地を譲るという場合には本人が適当に決めるんじゃなくて、村で、あそこの土地は今度は誰々に耕作してもらおうじゃないか、ということを現にやっていたわけです。こういうことは決して難しいことではなくて、その方法がいいとなれば、当時もできたんだと思います。やり方はきっとあったと思っているんです。


メロンは主食になれない  農業の基本は「糧」 ・・・ 米の量に

 梶井 一昨年、新しい基本法として「食料・農業・農村基本法」が制定され自給率向上が目標になりました。今の農政のあり方についてはどうお考えでしょうか。

 

梶井 功 氏

 近藤 旧農業基本法では、米、麦はだめだからもっと儲かるもの、有利なものを選んでお作りなさいとなりましたね。そのときに考えられたのは、温室を作って早出しの野菜を作るとか、メロンを作るとかというようなことでした。
 農業基本法は、戦前の不景気をきっかけに農村経済更正計画ができて農村部ももっと収入が欲しいという発想からの延長で、儲かるものを作りなさいという考え方になったんです。
 しかし、メロンはおいしいけれども主食にはならない。

 中国には、糧を以て綱と成す、ということわざがある。綱とは織物の縦糸のことなんです。織物をつくるときに、横糸はいろいろな糸があってもいいが、縦糸は初めから終わりまでしっかりしたものでなくてはならない。それと同じように、食料では、穀物や大豆といった糧が縦糸であって、それが大事なんだということです。
 これは中国の飢饉に対する考え方ですが、食料が国際的に問題になっている今、考えなくてはいけないと思いますね。

 かつて全農林で委員会をつくって「食料自給力の技術的展望」を出した。三木内閣のころです。そのなかで日本でも6割ぐらいの穀物自給率は技術的に可能だということを示しましたが、それができればかなり安全になると思います。
 今の状態では、たとえば、国連にアメリカが兵隊を出すから日本も一緒に、と言われたらいやとは言えないでしょう。食料がアメリカから入ってこないとなると、それは飢饉と同じことになりますからね。だから、どうしたってつき合いをしなければならんということになる。やはりそうじゃなくてアメリカが無理を言おうとしても言えないような状態というのが必要だと思うんですがね。


21世紀農業と協同組合  組合員主体、農協の民主化がカギに

 梶井 21世紀の日本の農業にとっても、農業協同組合には大きな役割を果たしてもらわなければいけないと思いますが、農協のあり方についてご意見を聞かせてください。

 近藤 やはり、組合員が求めているもの、主張していること、あるいは組合員にぜひともなくてはならないものを考える、ということに尽きるんじゃないのかな。これは民主化ということになるわけだけども。
 中央会などの立場は、政府の仕事を代行するような立場のほうが楽なんだろうけども、農協も初めのうちは違っていました。けれども食糧管理などの代行機関になってしまったですからね。農協がそういう生き方を変えない限りはちゃんとした農村ができあがることは難しいと思いますね。

 梶井 農協が農政の下請け団体になっちゃいかんということですね。ところで、今度の農業センサスでは、農業者の老齢化がずいぶん進みまして65歳以上の方が、農業就業人口の半分以上になりました。最後に今の日本農業を支えている高齢者の方々に激励のメッセージをいただけますか。

 近藤 まあ、102歳までやれとはいわんけどね(笑)、そう無理をしなければ働けると思います。
 僕の母が亡くなったのは80代だったけど、70代はまだ農業やっていましたからね。親父が亡くなったあとに、大八車、これから自分が農作業するのにはあれが欲しいといったんだ。当時は、畑などへの行き来にも使っていたものですからね。でも、もういいからやめなさい、と言って買わなかったんだけど(笑)。だから、大八車は買わなくてもいいけれど無理をしなければ働けると思いますね。周囲の人も、高齢者に対して、年取った、とあまり言わないほうがいいんじゃないか(笑)。

 梶井 今日はどうもありがとうございました。



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