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農協時論

新しい農畜産物流通のルール
トレーサビリティー・システムへの期待と懸念

中嶋康博 東京大学大学院農学生命科学研究科助教授 
 

中嶋康博氏

(なかしま・やすひろ)
昭和34年埼玉県生まれ。東京大学大学院農学系研究科博士課程修了。農学博士。東京大学助手を経て、平成8年より現職。主な著書に『アグリビジネスの産業組織』『日本農業の経済分析』(いずれも共著)など。

 BSE感染牛の存在が公表された9月10日は、わが国の食品安全政策を転換させる契機になった日として長く記憶されることになるだろう。その後、「牛肉在庫緊急保管対策事業」における輸入牛肉混入事件に端を発して、BSE問題だけにとどまらない違反行為が食肉部門で次々と明らかになった。たとえば、国産牛肉の代わりに輸入牛肉を販売、国内の原産地名の付け替え、品種を偽って豚肉販売、無薬鶏肉と詐称しての販売などである。
 このように今回の食品スキャンダルでは、数々の表示違反行為が表面化した。看板に偽りありの行為だが、その中で最も深刻だったのは、食の安全にもかかわる消費期限を延長する表示の張り替えであろう。これら一連のスキャンダルは、食品のサプライチェーンの土台がいかに危ういものであるかを明らかにした。われわれの豊かな食生活は幻想だったのであろうか。今回の表示事件が起きて再認識されたことは、適切な表示を行わせるためには、事後的な検証作業が常に必要だということである。
 このままでは高度な安全・品質管理は難しいかもしれない。流通の前提条件となるはずの信頼の仕組みがもろくも崩れてしまったため、構造的に対応できないことが懸念される。

◆表示制度とトレーサビリティー

 消費者が正しく選択するには、その商品の属性や機能についての十分な知識が必要である。しかし、食品に限らずどのような商品も、外観から判明する情報はごく一部だから、中味を詳しく知るには適切な表示が欠かせない。
 表示の対象となるのは、原産地、安全性(添加物、有機栽培、アレルギー物質)、品質(原材料、製法)、そしてその他の消費者の関心事項(環境配慮、動物福祉)であるが、これらを定量的に確認して正しく表示するには、いわゆるトレーサビリティー(追跡可能性)が確保されていなければならない。
 トレーサビリティーはこれからの農畜産物と食品流通のあり方を左右するキーコンセプトである。消費者は、生鮮農産物から加工食品まで、どのように生産されて手元に届けられたのか、ますます詳しく知りたいと思うようになっている。BSE対策でも重視されていて、この春から本格的に始動するはずの「家畜個体識別システム」はトレーサビリティーの代表例である。
 ところで消費者は、商品の中味をただ単に細かく知りたいわけではない。これまでにない特徴をもった農産物や加工食品、すなわち「製品差別化」した商品が欲しいのであって、そのことを表示してもらいたいのである。つまり開示するに値する特性でなければ消費者にとって表示してもらう必要がない。ということは、追跡するための仕組みを構築するだけではなくて、それに加えて製品差別化もあわせて行って始めて意味がある。
 このことは、実は、現実のビジネスにとって都合がよい。トレーサビリティーを構築するには、物流設備、情報伝達、人材育成、取引ルールなど、流通の様々な面で新しい仕組みが必要だから、追加的な費用は相当大きくなる。このコストをいかに回収するのかがビジネス上の課題となっている。もし製品差別化に成功したならば、既存の商品よりも高い値段がつけられるから、それでカバーできるようになる。

◆有機栽培品にみるトレーサビリティーの課題

 JAS法による有機表示の規制が昨年4月に開始したが、有機ラベルはこれからどの程度まで普及するであろうか。そもそも有機農産物の需要がそれほど大きくないかもしれないという根本的な問題はある。現場では有機認証のコストが高すぎて割に合わないという意見が聞かれるが、つまり有機栽培品として製品差別化しても、トレーサビリティーのコストをまかなうほど有利販売できていないということになる。
 これまでの有機栽培品がそうであったように、消費者は自分が信頼する小売ルートから購入している限り、このようなラベルは必要ない。小売チェーンが川上の農家や農協と連携しながら、栽培計画書を作成して、農薬利用のガイドラインをしっかりと遵守させていけばよい。ポイントとなるのは、小売側が顧客である消費者に対して十分な情報開示をして、説明責任を果たすことである。
 小売チェーンではこのように独自のトレーサビリティーを構築して、農畜産物のプライベートブランド化を進める動きが見られる。デフレ状態のために現在は苦戦しているが、底力のある小売チェーンは特別な仕様で生産された農畜産物を独自で開発して販売しつつある。
 消費者は「何を」生産しているかを知りたい。ところが売り場に農家の写真が貼られている例があるように、いくつかのトレーサビリティーでは「何を」を「誰が」に結びつけてしまっている。このような取引は非常に窮屈な流通を強いることになるが、窮屈な取引は無理を生み出しやすい。
 そこに構造的なもろさが見え隠れする。農畜産物の場合、あらかじめ発注されていても、天候変動や病害虫発生、家畜の生理条件の具合で出来すぎてしまったり、どうしても納品できなくなることがしばしばある。小売のルールとリズムに生産現場が追いついていけるのか。追いつけなかった時のリスクを小売側が引き受けてくれるのかが問題になるであろう。
 製品差別化によってますます市場が細分化されることは、消費者に多様な選択肢を与えるという意味で望ましい。しかし取引量は少なくなってマーケットが薄くなるために、消費者への商品提供は不安定になる。有機栽培品に限らず特別仕様の商品の場合、価格も高くなりがちである。したがって、商品が不足したときに虚偽の取引をしていないか、それが消費者に不利益をもたらすことがないか、常に監視しておくべきだろう。
 今回一部で見られたような不正を誘引させないためにも、特別仕様の商品を卸売市場からも調達できるようにこれまでの流通機能を一段と向上させて、小売側が主導してきたクローズドな取引を適切に補完する体制を整える必要がある。たとえば有機JASラベルの役割が期待される。ラベルで区別されていれば有機栽培品も卸売市場で取引可能になる。そのときに始めて、このラベルの真価が発揮されるだろう。

◆信頼のネットワークの再構築へ向けて

 彼らはなぜ脱法行為に及んだのか。一つにはバブル崩壊以降の長引く不況が理由になっているかもしれない。納入価格の低下、ノルマ達成へのプレッシャー、余裕のないビジネスが間違いなく様々のところにひずみを作り出している。しかしもちろんそれは言い訳にならない。また、業績がよくても違法行為に手を染めることがある、とアメリカのエンロン社の破綻が示している。トップの座についていた経営陣は、かつて在学したビジネススクールで企業倫理の授業を受けていたにもかかわらずである。
 残念ながら単に遵法精神を唱えるだけでは安心な食事は提供できない。ビジネスに結びついた信頼のネットワークの再構築が求められている。トレーサビリティーが、排他的取引を促進するためだけに使われるのならば、不安定な食料供給に結びついてしまう。そうではなくて、より高度な規格の農畜産物が広く取引できるための基盤を築くために利用されるように、行政や農協を始めとしてすべての農業・食品産業関係者に知恵を絞っていただきたいと願っている。


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