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忠か情かの分れ目 松平容保2017年7月9日

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【童門 冬二(歴史作家)】

◆特命会津に降る

 幕末の徳川幕府は、西南の実力大名に振り回されっぱなしだった。西南雄藩というのは薩摩藩・土佐藩・長州藩などだ。徳川家康は、徳川幕府を開いたときに大名を「譜代と外様」に分けた。譜代というのは、昔から徳川家に忠節を尽くしてきた大名たちだ。外様というのは、関ヶ原の合戦あるいは大坂の陣以後に徳川家に忠節を尽くすようになった大名たちだ。家康は外様大名を信用しなかった。
「旧主を裏切るようなものは、いつかわしをも裏切る」と考えていた。特に関ヶ原の合戦後に冷遇した長州藩毛利家や、薩摩藩島津家を警戒し続けた。二百数十年たった幕末に至って、その報復がおこなわれようとしていた。 
 外様大名では、幕閣に参加できないので、これらの大名は妙手を考え出した。それは天皇の名を借りて、勅使を立て幕府にいろいろ無理な要求をすることである。まず薩摩藩の国父(藩主の父)島津久光が勅使を立てて江戸城にやって来た。そして、幕政改革を求めた。
 特に人事において、新しく政治総裁職と将軍後見職を設けさせた。政治総裁職には前越前藩主松平慶永を、そして将軍後見職には一橋慶喜を充てろと強要した。一橋慶喜は、幕府に批判的な水戸藩主徳川斉昭の七男で、御三卿の一つ一橋家に養子に入った人物だ。近来まれに見る賢明な青年藩主だと言われていた。しかし幕府には批判的だ。結局幕府は、批判的な大名たちによって、新しい要職を奪われてしまったのである。幕府老中は頭を抱えた。相談した結果、
「我々も負けてはいられない。京都に幕府の拠点を設けよう」
 ということになって、長らく朝廷に絶えていた「京都守護職」というポストをよみがえらせることにした。誰がよいかということになって、結局、
「会津藩主松平容保(かたもり)が、徳川家に対して忠誠を示している。かれがよかろう」ということになった。使者が会津に行ってこのことを松平家に伝えた。松平家では大騒ぎになった。というのは、当時の会津藩は財政難に苦しんでいたからである。
「これ以上、アゴアシ(食料と交通費)自分持ちの京都守護職など引き受けては、会津藩の財政は破綻してしまう」と表情を暗くした。そこで重役たちが容保に向かって、
「絶対に、今度のポストなどお引き受けにならないでいただきたい。藩の財政が破綻いたします」と進言した。容保は黙って聞いていたが、重役たちの話が終わるとこう言った。
「おまえたちの気持ちはよくわかる。少し考えさせてくれ」
「どうか、必ずお引き受けにならないというご決断をお下しください」
 重役たちは、容保が考えると言ったのでこれは脈があると思って少し安心した。容保は真面目一方の青年大名だ。幕府からこんな依頼が来れば、一も二もなく、
「引き受ける」
 と言うに違いないと思っていたからだ。

◆主家か家臣かの選択

 その夜、容保は考え抜いた。会津松平家は徳川家と特別な因縁がある。初代の藩主は保科正之(ほしな・まさゆき)といって、三代将軍徳川家光の実弟だった。しかし母が父二代将軍秀忠の側室だったために、政府陣がこれを嫌い、側室と生まれた正之を殺そうとした。秀忠の側近に、同情する大名がいて、正之を密かに江戸城外へ運び出し、武田信玄の娘で今は尼になっている女性に預けた。正之は成長した。そして、信州(長野県)高遠藩主保科家の養子にした。正之は成人し保科家の跡を継いだ。
 やがて将軍になった家光がこのことを知った。
「わしに弟がいたのか」
 と驚いた。しかし喜んだ。父の秀忠が生存中ははばかったが、秀忠が死ぬと家光はすぐ保科正之を東北の有力な城山形城主にした。さらに、会津に移動させた。山形も会津も東北地方を守るのには大変な要衝だ。仙台の伊達政宗を警戒しての配置だ。そして、家光は正之を江戸城に呼んだ。正之は、生まれが生まれなので隅に控えていた。これに気がついた家光がこう言った。
「正之、ここへ来い。おまえはわしの弟だ。誰はばかることはない。ここにいる大名たちに比べれば、おまえはわしと血がつながっていてもっと胸を張ってよい存在だ。来い」
colu1707090101.jpg この言葉に正之は感動した。たとえ側室の子であっても、同じ父秀忠の子であれば、なにはばかることなく胸を張って諸大名に対せよという家光の勇気ある言葉に、長年日陰の身を囲ってきた正之は人一倍胸を熱くしたのである。このとき会津に戻った正之は、全家臣に向かってこう告げた。
「先般、このようなことがあり、わしは上様(家光)に特別の恩寵をこうむった。我が保科家はこれに応えねばならん。それは、徳川家に一朝事あるときは、率先藩兵となって、敵を防ぐことだ。今の大名はすべて徳川家に忠誠を尽くしてはいる。しかしその忠誠の中でも、我が会津藩はさらに特別のはからいをせねばならん。よいな」
 こうして、後々までも〝会津精神〟あるいは〝会津魂〟と呼ばれるような正之の言う、
「特別な徳川家への忠誠心」
 を培ったのである。その会津藩松平家(保科という姓を、将軍家の特別なはからいによって松平と改姓した)が、藩祖正之の言う、
「ほかの大名にない特別な忠誠心」
 を求められることになったのだ。容保は悩んだ。
「もしも京都守護職を引き受ければ、真に藩のことを心配している家臣たちの忠誠心に背くことになる。しかし、藩祖正之公以来〝特別な忠誠心〟を保たねばならぬ我が松平家が、もしもお断りすれば今度は徳川本家に対する忠誠心を失うことになる」
 源平時代の昔に、平清盛の息子重盛が、皇室と父清盛との間に挟まれて、両方から難題を押しつけられた。このとき重盛が、
「忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず」と悩んだのと同じだ。
 しかし容保は決断した。
「徳川家への忠誠心を全うするのは公である。家臣たちの要請に応えるのは私である。私を捨てて公に準じなければならぬ」
 翌朝容保は、全家臣に告げた。
「幕命のあった京都守護職を引き受ける。直ちに京へ出発する」
 あきれる重臣たちを尻目に、容保は目で、
「許せ」
 と頼んだ。こうして京都に入った容保は、新撰組などを使いながら反幕的な分子を片っ端から弾圧する。乱れに乱れていた京都の秩序が回復する。時の帝孝明天皇は、容保のこの活躍ぶりに感謝し、二度も感状を与えた。しかし、その孝明天皇が亡くなって、西南雄藩の外様大名たちが国政を牛耳るようになり、やがて明治維新が成立する。容保はその明治政府を構成した諸大名たちに敵対したということで、政府軍の名において討伐を受ける。悲惨な会津戦争が始まる。しかし容保はともかく、会津藩士にすれば、
「帝から二度も感状をいただくような我が松平家が、なぜこんなひどい目に遭わなければならないのか」
 という憤懣の気持ちがみなぎった。現在は、
「AかBか」
 という決断を迫られたときに、どちらかを選ぶのではなく、
「AでもBでもないCの道(第三の道)」
 を選ぶ方法も生まれているが、幕末にはそういう手段はなかった。つまり、幕府か反幕大名かの選択を迫られたのである。しかし容保の帝と朝廷に対する忠誠心は、ある意味で、
「容保なりの第三の道を選んだ」
 と言えないことはない。だからこそ、時の帝が容保に対し、二度も、
「よく京都の治安を回復し、守ってくれた」
 という感状を与えたのである。

(挿絵)大和坂和可

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