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検証・時の話題

現地ルポ 熊本県水俣市宝川内「集」地区を見る
−土石流が切り裂いた山里 災害乗りこえ集落の再生を誓う−

 7月20日未明、熊本県水俣市を襲った未曾有の集中豪雨によって市内山間部では大規模な土石流が発生。一家全員が家屋とともに流された人たちを含め死者19人の被害をもたらした。土砂や流木に埋まったのは市内宝川内(ほうがわち)集(あつまり)地区。その衝撃的な映像は全国に流れた。
 あれから2か月、今、被災した集の人々はほぼ全員が地区内の仮設住宅で暮らし、「皆で残ってまたここで暮らそう」と集落の再生を期している。今月には直売所も開設し復興のシンボルにもなっている。棚田に豊かに稲穂が稔るこの中山間地を訪ね人々の思いを聞いた。

 

◆未曾有の雨 山が崩れた…

 渓流と森、そして棚田が広がる山里を切り裂いたような光景が目の前に現れた。もとは細い渓流だったという集(あつまり)川の両岸は渇いた土砂や山肌からなぎ倒された流木で埋まっている。その下には数々の巨石が水俣川の支流の宝川内川との合流地点を埋め尽くしている。
 「ここにも一軒、あそこにも一軒ありました……」。被災者の会代表の吉海英機(62)さんが教えてくれたが、そうでなければこの集落のもとの様子はまったく想像がつかない。うまい米が穫れたという美しい棚田も多くが姿を消した。殺伐とした光景のなかで命を落とした人たちへ手向けられた花束が痛々しい。
土砂
土砂に埋まった集落。農業用倉庫が無残な姿をさらしていた。
 上流の山を見やるとごっそりと崩落した山肌がのぞく。砂防学会などの専門家の調査では山の深い部分から崩落が起こり、流出した土砂の量はおよそ10万立方メートルとされている。
 集地区23戸のうち16戸が住まいを失った。激しい雨が降り始めたのは7月20日の午前2時ごろ。前日は市民花火大会や踊りなど港祭りの1日めで、雨にも降られず無事に終わり市民はほっとしていた。
 激しさを増す雨と雷。「雷はずっと鳴りっぱなし。こんなことは見たことも聞いたこともなかった」と吉海さん。
 午前4時ごろ、妻、娘とともに避難しようとしていたとき吉海さんは「ドーンというすさまじい音と地震のような揺れを感じた」。渓流からはかなり高い位置にあるこの家にも大きな石がぶつかったのだ。妻がそれに気づきみなで急いで玄関から脱出しようとしたが、すでに家がゆがんでいてどうしても戸が開かず裏口から外へ出た。下を見ると濁流が渦巻いていた。
 そのとき、家の近くにランニング姿でうずくまって震えている人影を見つけた。声をかけると同じ集落に住む吉海照亘さんだった。聞けば家ごと濁流に流され自分は300メートルほど下流で川岸の木に夢中でつかまってはい上がり、もどってきたのだという。全身ずぶぬれで胸にケガをしていた。携帯電話で救急車を呼んだがすでに道路に流木が散らばっていたためかなかなか来なかった。奇跡的に一命はとりとめたが照亘さんは現在も入院中である。

◆次世代のリーダー奪った土石流

 照亘さんのように一命をとりとめた人もいたものの、夜が明けるとみな声を失った。そこにあるはずの家がない。姿の見えない人がいる。どこをどう探せばいいのか、呆然となった。
 結局、命を落としたのはこの集落で15名。約80人ほどの集落だから一度に2割もの住民を失ったことになる。遠く流されて後に不知火湾で遺体が発見された人もいた。
 亡くなった人のなかには、午前2時ごろから激しい雨のなか見回りに出かけた消防団員3人もいる。残された人の話からすると、濁流に囲まれ孤立した人を助けようとロープで渡ろうしたところを土石流に飲み込まれたのではないかと推測された。
 3人は30代、40代。奇跡的に助かった照亘さんの息子もいる。「消防団としては当然、じっとしていられない状況だった。地域を守るために消防団は自主的に動くものです。ただ、ここで生まれた3人。私も子どものころから知っていて、これから集落の中心になってがんばってもらう人たちだった。寂しいです」と吉海さんは肩を落とす。集落の行事でも活躍、まさに地域のリーダーになる人たちだった。妻、子ども、そして両親を残して先立った人もいる。

◆都会の消費者から励ましも

 吉海英機さんはみかんやデコポンなどを40年以上栽培する専業農家。
被災者の会代表 吉海英機さん
被災者の会代表
吉海英機さん
30アールほどの樹園地のうちほとんどが一瞬にして流され残ったのは5アールほど。デコポン栽培を主力にしており今年も収穫を楽しみにしていたが「いちばん楽しみにしていた畑が流された」。
 昭和60年代から有機栽培に取り組み都会の消費者グループへの出荷と自ら長年食べてくれた近隣の消費者に宅配して生計を立ててきた。
 自宅の再建とともに新たなみかん園づくりもしなければならない。みかん園ができても収穫が可能になるまで5年はかかる。ただ、災害を知った大阪、東京などの消費者からお見舞いの便りが届いているのが励ましになっている。輪ゴムでまとめた封筒の束を見せてくれたがそれは吉海さんが書いた返事の束だった。「やはり一通一通書かなければ」。
 今月、県は復興計画を示した。崩落部から下流にかけて治山ダムを複数つくり、集落の手前に砂防ダムを設ける計画だ。
 失われた水田と農地はまとめて新たに造成し、住民に配分する方向だ。宅地も安全な場所にまとまった形で確保するという案が示された。
 「農地は以前より少なくなるかもしれないが、みなここに残って暮らしたいという希望を持っている。その気持ちをもとに合意をつくっていこうと思います」。

◆直売所を開設復興願うシンボルに

仮設住宅
かつては牛のセリ市が立った。30年間、運動会を開いてきた広場に今は仮設住宅が建つ

 この集落で暮らしを再建したいという思いの強さは、家を失い残された14世帯40人全員が集落内に作られた仮設住宅に入居したことに現れている。
 市としては、被災者に市街地にある市営住宅のあっせんもした。しかし、「知っている人がいる地域がいい、と全世帯が仮設住宅へ申し込みました」。
 仮設住宅の立つ土地はかつて住民が土地を出し合ってつくった広場。ここで30年にわたって幼児からお年寄りまで参加する集落の運動会を開いてきた。
 それ以前は、昭和40年代まで牛の競り市が開かれていた。米の収入だけでは生計が立たず農家は農耕用メス牛に子牛を産ませてそれを売った。水俣市山間部一帯の牛が集まってきた時代もあった。
 さらにそれより前は、不知火海の海の幸と山の恵みを交換する場でもあったという。
 「集」という集落の名の通り人もものも集まってきた地域なのである。それだけにこの集落を維持していこうという人々の思いは強い。
 最近では中山間地域直接支払い制度導入にともなって初年度から、水路、農道の維持管理、林地の共同下草刈り、景観作物の作付けなどの内容の集落協定を結び、集落の農地、農業の維持をはかってきた。協定参加者は17名。だが、その名簿には災害で亡くなった人の名もある。また、直接支払い制度の対象農地そのものも一部流失してしまった。おそらく同制度の導入以来これは初めての事態だろう。
 9月14日、集地区から少し下流に下った国道沿いに農産物直売所「かっさい市場」がオープンした。もともとは8月に開設する予定だったが被災で遅れた。集の人々も野菜や山菜おこわなど加工品を出品。身動きがとれないほど大勢がつめかけ久しぶりに笑顔が広がったと地元紙は伝えている。
 土石流で故郷の姿は変わってしまった。これほどの大災害は「年寄りからも聞いたことがない」と築100年以上の自宅を失った吉海さんはいう。
 しかし、「近所の付き合いもよく人間関係も安心で暮らしやすかった。まずは住まいを再建してみなが落ち着くことが大事」と吉海さん。人々が「集」に集まって、心豊かな人々が山里を再生する日が一刻も早く来ることを願う。
 今回の集中豪雨で亡くなられた方々のご冥福と負傷された方々の一刻も早い回復を祈ります。 (編集部)

(2003.9.30)



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