農業協同組合新聞 JACOM
   

検証・時の話題

平成5年 大凶作の教訓
安定供給実現のために 10年前の大凶作に学ぶこと
  11月28日、16年産の米の生産数量目標の県別配分が決まった。15年産の不作を受けて生産調整面積としては106万ヘクタールと据え置きとなったが、県別配分には県産ごとの需要実績をもとに決めるという売れる米づくりに向けて踏み出したといえる。
 ただし、現在は、15年産米の集荷への取り組みなどJAグループにとっては米の安定供給に向けた課題も抱えている。今回は、戦後最悪の凶作となった平成5年(1993年)の状況を振り返り、主食である米の安定供給のためにどのようなことが求められるのかを考えてみた。

◆備蓄ほとんどなく 米を緊急輸入(平成5年)
冷害で穂が立ち枯れた稲田。今後もこんな光景がないとは言えない。
冷害で穂が立ち枯れた稲田。今後もこんな光景がないとは言えない。

 平成5年の米の作況指数は全国で「74」。冷害と秋の台風により戦後最悪の大凶作となった。
 今年も東北地方では冷害が深刻だが、当時も青森で作況指数28、宮城で37など、大打撃を受けた。
 備蓄制度がなかったため政府米の在庫量はわずか23万トン。5年産の全国生産量は766万トンで、需要量940万トンに届かず、政府は秋に緊急輸入を決めた。結果的に200万トンを超える輸入が行われた。
 10年前の10月の新聞には佐藤喜春(故)全中会長名で、生産調整を実施しているなか緊急輸入という事態を招いたことを重大な失政と批判、備蓄体制の確立と国内自給体制の堅持を求める意見広告が掲載された。
 米不足、とのニュースがかけめぐると消費者に不安が広がり、店頭に行列ができたという地域も出てきた。
 とくに被害の大きい東北地方では、収穫期が遅いこともあって9月末から店頭での品切れや早朝から消費者が列をなして並ぶということも報じられるようになった。
 青森県の関係者に当時を振り返ってもらうと、「ほとんど皆無作に近く、稲刈りじゃなくトラクターでの押しつぶし、草刈り機での刈り払いをする田んぼもあった。村によってはまさにワラ刈りをしてもらうために助成金を出したところもあった」と話す。

◆「産地」から JAグループ「産地」へ直送

 こうした事態のなかで、JAグループはいち早く全量集荷運動を呼びかけている。平成5年9月9日付け『日本農業新聞』にはJA全農が「お米は全量JAへ」と題した全面広告を掲載。当時は食管制度下にあったが、不作により不正規流通米が増加し、秩序ある米流通が崩れると、米の輸入自由化阻止などにも影響するとして、「一俵でも多くJAに米を出荷しよう」と呼びかけている。また、各地の集荷運動の取り組みも紹介している。
 全面広告に掲載されたポスターには生産者の姿が描かれ、『私は米をつくりつづけたい』と大きく記されている。
 この年の末に政府は、米の市場開放を含めたウルグアイ・ラウンド合意を受け入れたが、この「米をつくりつづけたい」とのキャッチコピーは、輸入自由化阻止の気持ちはもちろん、安定的な米の供給こそ生産の安定につながるという問題を改めて訴えたものだろう。
 当時のJA全農の米穀事業の担当者によれば、一部には米が高く売れる絶好の機会ではないか、との声もあったが、JAグループとしての役割は「価格も含めた安定供給にあること」をいち早く全国にアピールするために訴えたという。
 同時に具体的な事業としてJA全農が展開したのが直行配送方式。
 青森や岩手、宮城など作柄がとくに不良で、しかも遅場地帯のため、前述したように一部の県内で供給不足が起きていた。そのため早場地帯の新潟県産米を、検査した後、倉庫に搬入せずに、コンテナで東北地方に発送した。これによって一部では品切れもあったが、早い段階でパニック状態を回避することができたという。
 平年作であれば東北の米は消費地に届けられる大産地だが、このときは県内供給もあやぶまれたための異例の措置だったが、JAグループの機能を発揮した例といえるだろう。当時の担当者も「コストはかかるが安定供給のためにと理解し、みんなで支え合った」と振り返る。

◆過去には綱渡りで乗り切った年も

 JAグループの直行配送の取り組みは実は初めてのことではなかった。
 平成5年からさらに10年以上前の昭和55年は作況指数「87」だった。ただし、左表が示すように在庫が600万トンを超えるという第2次過剰時代だったため供給に支障はなかった。
 しかし、翌年から3年間、作況指数「96」が連続し在庫は減り続ける。それは過剰の解消にはなるのだが、昭和59年10月末の在庫は表にあるように約1000トンという事態だった。が、この年の作況は「108」と一転して大豊作。ただし、端境期には米不足が想定されたため、全国でもとくに大豊作だった北海道産米に対して早期出荷奨励を行い、本州へ直行配送したのだという。これがJAグループが直行配送に取り組んだ最初の例だという。こうした経験が平成5年にも活かされたことになる。

◆農家の努力で供給量が増えた

「JAグループ経済事業基礎統計2003版」(JA全農編)より
「JAグループ経済事業基礎統計2003版」(JA全農編)より

 一方、産地ではどのような取り組みが行われたのか。当時、宮城県の4連会長を務めていた駒口盛氏は、米の生産と販売、それぞれに課題が生じた年だったと10年前を振り返った。
 生産の点では、「収量の多い品種だけではなく、やはり冷害に強い品種を育てることが大切だという反省が生まれた」という。実際にこの年をきっかけに耐冷品種のひとめぼれの作付けが増えていくことになる。
 また、当時もすでに消費者から無農薬栽培を求める声が出ていたが、大冷害によって本当に無農薬栽培を追求していって生産は安定するのかという考えも出て「冷害にはいもち病はつきもので、一定の防除をしなければ収量が得られないことを消費者に理解してもらう必要があると考えた。そこから減農薬栽培をめざしながらの米づくりへと取り組む方向が出てきた」と語る。
 一方、販売面は例年なら全国的に取引を展開しているのに、県内供給もままならない状況。「販売には大変苦労した記憶があるが、取引は一回で終わるものではなく翌年も継続してもらわなければならないことを基本に考えた。一定のルールを決めて、販売先には量はわずかだが納得してもらうようにした。取引先からの不満の声にはきちんとお話しするしかなかった。本当に総力をあげて取り組んだと思う」という。
 駒口氏がこう語るのも、翌年が豊作となった場合のことを考えてのこと。実際、翌年は全国で作況指数109の大豊作となった。「不作のときは豊作を、豊作のときは不作のことを考えるのが農家の鉄則です」。実際、こうした考え方に基づいた集荷運動が展開されたのだという。
 前述した集荷運動への取り組みは、現場では平年なら出荷しない規格の米も「一俵でも多く」と出荷した。国産米の絶対量が不足するなか、こうして農家段階では自家用米にはクズ米に近いものしか残らないという事態であっても出荷に努力したのだという。「不作のときはまさに飢餓販売になるものなんです」と駒口氏は語る。
 中国産など緊急輸入米が実際に店頭で販売されたのは翌平成6年の春。食味や安全性への懸念から販売不振で、国は国産米とのセット販売を業界に指導した。
 結果的に緊急輸入米は大量に売れ残ったが、それは輸入米への不人気だけだったのか。駒口氏は「農家段階で一俵でも多くと出荷の努力を続けた結果、当初の予想より国産米の出回り量が増えたことが背景にあった」と指摘する。

◆計画だけでは実現しない 今後も問われる国の責任

 平成5年の不作によって、店頭から一時的に米が消えるという事態はあった。それが印象に残っているが、実は消費者が不安にかられて買いだめに走ったという面もある。情報が正しく受け止められていなかったといえる。また、不作を機に業者や消費者と直接取引をする一部の事例をもとに、米流通制度の改革を声高に叫ぶ論調も見られた。しかし、翌年、豊作となると一転してそうした声は消えてしまった。
 むしろ苦労しながらも冷静に米の安定供給の実現にに取り組んだことを忘れてはならないだろう。国の統計データでは、平成5年も需給は均衡したことになっている。が、それはあくまで結果である。「計画を立てておけば安定供給できるはずというなら、それは放任主義と同じ。それを実現するために具体的に誰が何をしたか、忘れてはならない」とは当時を知るある関係者の言葉だ。安定供給はJAグループに期待される役割ではあるが、流通規制がゆるまるなか、「国の役割もまた問われる」との指摘である。 (2003.12.5)



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