最初に農業保護の歴史を簡単に振り返っておこう。
工業国における農業保護には2つの画期があった。1つは19世紀の終わり頃、西ヨーロッパにアメリカ、ロシア、インドなどから安い穀物が押し寄せ、国内産の穀物生産が対抗できず、そのため関税を掛けて国内農業を保護したことが、農業保護の始まりである。安い海外産の穀物の競争力は広大な農地の存在(アメリカに代表)と安い労賃(ロシアに代表)、それに海上運賃の低下によってもたらされ、各国の農産物生産費に次第に大きな差が生まれ、輸入国では放置できなくなってきた。
◆国際システムとしての農業保護
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まつうら としあき
1933年生まれ。1957年東京大学農学部卒業後、農林水産省農業総合研究所(現農林水産政策研究所)に勤務(海外部長他)。1985年〜2004年3月、専修大学経済学部教授、経済学部長。主な著書に「先進国農業の兼業問題」(編著、1984年)、「社会主義農業の変貌」(1988年)他。
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2つ目の画期は第一次大戦後あたりから始まり、世界大恐慌で確立する保護体制であるが、ここでは国内の農産物価格の低下と農業者の低所得が最大の問題になる。この背後には産業構造の変化が作用しており、工業では重化学産業を中心に大企業が形成され、そこでは価格水準は市場での自由競争では決まらなくなる。これに対して農業では過剰の処理が難しくなり、低価格状態が長く続き、農工間格差が形成されてくる。市場の力ではこの格差は容易に解消できず、市場の代わり国家が大きな役割を果たすようになる。それが農業保護政策といわれるもので、現在各国で行われているものの原型である。
この段階になると工業国は例外なく農業保護政策を採用するようになるが、それは原因が国内の産業構造の変化にあったからである。第一段階ではもっぱら攻撃側に立っていたアメリカも、第二段階になると世界に先駆けて国内農業の保護を行うようになり、農業保護は国際システムとして確立する。と同時に国内農業保護政策の中に国境措置(関税、輸入割当、輸入禁止等)もしっかり組み込まれる。しかも農業保護はそれぞれの国が自国の条件に合わせて政策を形成したから、保護の水準も保護の手段も異なるという状態が生まれた。
◆生産者層の分化と農政転換
第二次大戦後も農業保護の時代は続いた。ガットという国際貿易を活発にする目的で作られた機関も、農業保護には容易に手が出せなかった。
保護を続かせた要因としては、第1は国際政治の状況、具体的には米ソ冷戦体制があり、国として食料の確保、自前の生産を必須事にさせた。第2には戦後の経済成長が農工間所得格差の問題を拡大したことである。
他方、戦後新しく生じた要因は農業生産力の飛躍的な発展、それに触発された農業構造の大きな変化、保護政策にもかかわらず農産物貿易の一定の展開が挙げられよう。なかでも農業構造の変化は、農業のウエイトを小さくする(農業経営数、農業就業者数の激減に示される)。
一方、比較的均質だった生産者層を分化させ、保護を必要としない大規模層、兼業化して農業所得に頼らない層、保護なしでは存立し得ない低所得専業層の3層を明確にした。もちろん、これら3層の比率配分は国ごとに相当違っている。これらの変化はもっぱら価格支持=所得支持に立脚する農業保護政策の存在根拠を掘り返し、農政転換の推進力となった。価格支持型農政のマイナス現象としては、保護配分の不公正、地域格差の拡大、環境悪化の促進、過剰の強化と貿易への作用が指摘できる。加えて1989年の冷戦構造の終わりは、食料確保戦略の基盤を崩す足がかりとなった。
◆伝統的な保護からの脱却模索するEU
さて西ヨーロッパは、伝統的な農産物輸入地域として、また工業の発達した比較的規模の小さい農業を持つ国として、伝統的に農業保護の中心地域であった。戦後はこの地域に経済統合という新たな動きが加わり、1958年に6カ国で始まった経済統合は、現在では15カ国となり、さらに東欧諸国等を加えつつある。
この統合の1つの特徴は農業をも含んでいることで、具体的には各国ばらばらだった農業政策を共通化すると同時に農産物市場もまた共同市場にすることであった。これは参加国どうしでは国境保護を撤廃するという部分的自由化、競争の進展を意味していた。しかし、同時に域外に対しては強固な農業保護の壁を構築し、域内生産者の保護についても、当初は域内自由化の代償として保護の程度を強くした。その象徴が穀物等の可変課徴金制度であり、域内生産優先の原則が貫かれた。同時に域内生産物の補助輸出が制度化され、保護政策の結果生ずる過剰処理を行う仕組みも作られた。
EUの共通農業政策は、経済統合を進めるためのコストだったといってよいかもしれない。こうした保護色の極めて強い政策は、70年代の食料不安が過ぎる頃までは、大きな変更もなく続けられた。その間もたれたガット・ラウンドでも保護緩和を求めるアメリカと対決しながら、保護の旗印は決して下ろさなかった。
しかしEU農業にも、先に述べた様々な変化要因が働き、保護政策のマイナス現象も次第に大きくなった。酪農部門を筆頭に過剰問題が60年代から出始め、80年代には生産割当制度や減反が政策に登場するようになり、同時に環境問題への農業のプラス、マイナス作用が関心を呼ぶようになった。他方、価格支持政策では脱落する農業不利地域対策が具体性を帯びてきた(EUでの政策化は75年)。
全体として農業保護の必要を認めた上で、保護方法の改革という方向が次第に強められ、それがウルグアイ・ラウンド農業交渉の時期と重なったとみてよい。EUが農政改革をWTO交渉の妥結に先立って始めたことは、交渉戦略的な意味もさることながら、EU自体が伝統的な農業保護のあり方に苦しみ、そこからの脱却を模索していたことを物語っている。同時にEUはかつての農産物輸入国から有力な輸出国へ転換していったことも、純然たる輸入国であった日本との違いにつながっていた。
◆「不足払い」としての直接支払い
90年代以降のEU農業政策は、92年のマックシャーリ農業改革、90年代末の農業アジェンタ2000、さらに2005年から実施予定の2003年共通農政改革と目まぐるしく動き始めている。これらの改革を貫徹している基本的な方向は、第1には農業者保護の方法を価格支持から直接支払いに転換していくことであり、第2には直接支払いの条件に環境効果をはじめとする農業の多面的機能を結びつけていくことである。第1の点は域内価格の引き下げ(穀価をとると、92年改革で29%、99年15%、03年20%)を行い、それによる生産者の所得減を直接支払いで補償(補償率は92年100%、99年50%)するが、穀物でみるとこの間の価格引き下げ率は出発時の52%になる。さらに2003年に決まった直接支払い方法は、農産物ごとに出されていた補償が農場単位で一本化され、生産との切り離しが意図されている。普通規模の経営で年間約1万〜2万ユーロ(日本円にして130万〜260万)程度が直接支払われることになろう。
EU農政の基本型がようやく整ってきたといってよいが、それは生産刺激を極力避けた不足払い制度であり、輸出補助金を必要としない国際価格に域内価格を近づけるものである。本来不足払い制度は小規模経営の多い構造のもとでは費用面からも運用面からも不向きなものとされているが、EUの農業構造がそこまで整理されたとは考えがたい。ただ国際価格との開きという点では、EUの穀物価格は日本の米価と比べ出発時において既にはるかに有利な立場にあったことは否定できない。それだけに日本の場合国際価格との断絶が大きく、接近が容易でないことを意味する。将来を考えても、コメの競争相手が低賃金のアジア米産国であり、他方麦の方は高賃金の温帯国主体である点からも、EUのこのようなWTO対応が可能なのかもしれない。
◆自由化と管理化の狭間をどう切り拓くか
しかし、EUのアメリカ型農政への接近は、様々な困難に直面することは確実であり、将来とも多くの手直しが必要だといえる。例えば直接支払いの上限設定(シーリング)などはすぐに問題化すると予想され、EUでも基本方向は出すが、実施面での弾力性を各国の選択に委ね幅を設ける形で解決をはかっている。
もう1点は直接支払いを価格引き下げの単なる補償処置とせず、需給条件に適切な農業(環境に優しく、安全な食料を提供する)を行うという制約を課している。しかしこれも実際面のチェック(補助金の適正な使用)を考えると簡単なことではない。個別経営と国が直接結びつくという行政システムを基本としているだけに、果たしてうまくチェックできるのか否か課題を残している。自由化(価格引き下げ)と管理化の狭間を、どのように切り拓いていくのか注目したい。
農業の果たす多面的な機能を配慮するという点では、わが国と共通の基盤を持ちながら、農政の実施面では枠組み条件にかなり大きな違いがあり、そのまま取り入れることは到底できないというのがEUの農業と農政を見ての感想である。また農業保護の歴史を振り返れば、現在のWTOの市場原則独走は、政治、自然(環境)、文化、地域、人間といった面での条件を除外し、いたずらに経済面での国境なき世界を求めすぎてはいないだろうか。経済面でのボーダーレスには、当然国家なき世界が展望されなければならない。
(2004.11.19) |