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解説記事
特別寄稿
なぜ生産量調整なのか
森島賢 立正大学教授

 1971年から始まった米の減反は、30年あまりを経て、近年ますます混迷の度を深めている。
 そこで、政府は今(02)年の年初から米の生産調整に関する研究会を作って、減反制度の抜本的な検討を始めた。やがて半年になろうとしているが、6月末には中間報告を出す予定だという。30年以上つづいた減反制度は、いま歴史的ともいえる大きな曲がり角に立っているのである。
 研究会での議論のようすは、そのつどインターネットで公開されていて、この点は高く評価できる。しかし、問題はその中味である。

◆押しつけの儀式にするな

森島賢氏

 この研究会の目的は「生産数量管理への移行を図ることとされた生産調整の今後のあり方・・・について幅広く検討する」というものである。つまり、これまでの作付面積の調整から生産数量の調整への移行はすでに決まったことにして、その上で、移行にともなう諸問題を研究することを目的にした。
 生産量の調整への移行は、これまでの減反制度の根本的な変更になる。そこで研究会は減反制度そのものを、抜本的かつ全面的に検討することにした。
 減反制度の全面的な検討は、むしろ遅きに失したというべきだが、しかし、それなら生産数量調整への移行を既定方針にするのではなく、数量調整そのものも検討の対象にすべきだろう。だが、そうすると研究会の目的から逸脱することになる。
 もしかすると、研究会を利用して数量調整への移行を、農業者に対して一方的に押しつけるための儀式を行おうとしているのかもしれない。そのような疑いがある。
 ミニマム・アクセス(MA)を検討したときがそうだった。研究会は、MAが国内生産におよぼした実質的な影響は全くなかった、とする評価を早々と了承して、それ以後、研究会はMAの議論はしないようにしている。そうして今後のMAの拡大へ道を開いた。
 その後の議論の土台にしている、ある有力委員の「メモ」にはMAという文字さえもない。MAに真正面から向き合うのではなく、MAの存在じたいに目をつむり、隠そうとしている。
儀式は終わったというように。

◆数量調整は「目くらまし」か

 数量調整への移行についても、既定方針にそって、MAのときと同じように早々と了承してしまい、それ以後は議論しないことにするのだろうか。そうなれば、それ以後の議論は数量調整への移行を、どのようにして農業者に納得してもらうか、という小手先の矮小な議論に堕ちるだろう。そうして結局、納得してもらえないだろう。現地検討会で、数量調整への移行に賛成した農業者は、ほとんどいなかった。
 研究会は、行きづまったいまの減反制度の問題点を抜本的に摘出し、解決の方法を検討するのではなく、いっさい蓋をしてしまおうというのだろうか。
 そうなれば、数量調整への移行は、目先を派手に変えることで、減反の限界感や不公平問題をうやむやにするための「目くらまし」に終わるだろう。
 MA問題をはぐらかし、減反の基本問題をうやむやにしたのでは、農政不信は深まるばかりである。
 研究会で、ある委員が鋭く指摘したように、減反の限界感や不公平問題の多くは、米政策にたいする不満や不信の別の表現でもある。

◆過剰を激化し、
  疑心暗鬼を生む

 いったい、なぜ数量調整なのか。数量調整で何が解決されるのか。提案の理由の一つは、減反面積という否定的なものを配分するよりも、生産量という積極的なものを配分する方が、心理的に受け入れやすい、というものである。
 もう一つの理由は、生産調整とはそもそも生産量を調整するものだ、という単純な理由である。
 心理的なことは重要だし、単純なことは良いことだが、しかしその結果、実際に深刻な影響があるとすれば問題である。
 実際に生産現場の多くの人達は、つぎのような危惧を研究会で表明している。すなわち、仮にある人が100の生産量を配分されたとしよう。米の生産量は天候に左右されるから、もしもその人が平年作を想定して作付すると、実際に不作になったばあい、100だけ収穫できずに生産枠を残すことになる。その結果、その人は不利になる。だから、作柄が不作になっても不利にならないように、多めに作付するだろう。実際は不作にならず100よりも多く収穫できたら、その分はこっそり計画外米として売れば誰にも気付かれない。だから、誰もがこのような行動をするだろう。
 このように、数量調整は「目くらまし」というだけでなく、供給過剰を激化させ、計画外米を増やし、その結果、米価をさらに下落させるだろう。そうして、その責任を農業者に押しつけるのだろうか。
 それだけではない。もっと深刻なことは、同じ集落に住む農業者どうしが、たがいに疑うようになることである。それが原因になって、集落は陰湿な空気に包まれるようになるだろう。
 以上のような危惧にたいして、提案者は何も答えていない。答えられないのではないか。答えられないまま、MAのばあいと同じように、数量調整への移行を研究会で早々と了承してしまうのだろうか。

◆減反制度そのものに危機

 MAを容認したうえで、数量調整へ移行すれば、それをキッカケにして、減反制度そのものが崩壊してしまうのではないか。減反制度はいま、存亡の危機にある。研究会の中には減反をやめたらどうか、という意見が一部にある。このような意見は、どこから出てくるのか。
 研究会では折りにふれて減反の目的は何か、という議論が行われている。一部の委員の意見は、減反は農業者のために米価を維持することだ、というものである。米価が下がると農業者が困窮するから、見るに見かねて、いわば人道的な支援のために減反、つまりカルテルを特別の恩恵で認め、そのうえ財政的な援助までしている、という理解である。
 このような支援を30年以上もつづけているのは異常だ。だから農業者はそろそろ自立し、減反はやめたらどうか、という意見である。
 それに対して農業者側は申し訳なさそうに、うつむいているように見える。だが、この意見は根本的な思い違いである。
 減反の第一の目的は農業者を救うことではない。再生産を可能にする価格を維持して、再生産を安定的に確保することである。それは大多数の国民の願いである。しかし、市場に任せたのではそれはできない。だから国民に代わって、政府が政府の責任で、農業者に減反をお願いしているのである。

◆新たな農協批判が

 最後に市場について、ひとこと言っておきたい。研究会では「余りものに値なし」とか「需要に見合った生産」とかいうことが、何の疑いもなく共通の理解になっている。販売活動の第一線では、その通りだろう。しかし、これは万古不易の真理ではない。
 制度や政策の議論をするとき、この考えは、市場は完全無欠だという神話を信奉する市場原理主義の特異な政治哲学に基づくものである。この哲学は、市場の暴力に対して、経済的弱者が協同して敢然と立ち向かうという協同組合の哲学とは縁もゆかりもない。それどころか、協同組合の哲学に真正面から対立し、全面的に否定する哲学である。この哲学を受け入れれば、JAに明日はない。
 研究会のメールマガジンは、先日(5・24)「農家や消費者は生産調整の廃止を望んでおり、存続を望んでいるのは農協のみである」という農協非難の投書を掲載している。これは官製の農協非難ともいえる。
 政府はJAの米の共販事業を縮小させたうえで「改革か解体か」とおどしている。また、ある雑誌は、農協を破綻させなければ、農業の構造改革はできない、とする論説を載せている。このような誹謗を見過ごしていいのだろうか。


農業協同組合新聞(社団法人農協協会)
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