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解説記事
ある農の志士=回想の藤本敏夫=
小橋暢之 (株)パストラル代表取締役社長

 平成14年8月2日、うだるような暑さの中、私は南房総の嶺岡山系にある鴨川自然王国を訪れていた。
 去る7月31日、長い闘病の末亡くなられた藤本敏夫さんの葬儀に参列させてもらうためだった。
 「今度、鴨川に行くからね。向こうで一杯やろうね」と私は何度も彼に空手形を切っていて、結局こういう形での訪問になってしまったことを悔やんでいた。王国の中心にある簡素な藤本敏夫さんの住居の前に立ち、遺影を見ながら、生前、彼と赤坂の居酒屋で何度か飲み、語り合った夜のことを思い出していた。
 「ぼくは、長い間、農業でマイナーなことしてきたけど、いよいよメジャーと協力して、自然王国ブランドを世に出す時が来た。」彼がそう熱っぽく語ったのは2000年の秋頃だったろうか。この頃、藤本敏夫さんは、健康と環境基準にもとずく農産物や食品などを流通させる会社、ナチュラルコミニュケーションズの立ち上げにかかっていた。会社を立ち上げたら是非ともPRに一役買ってほしいというのが彼の要望だったが、私は快諾した。
 ちょうど、雪印乳業の不祥事が大きな問題になっている時で、たべものの安全性に関する不安が一層高まりつつあり、EU市民の間で生まれた食品のトレーサビリティといった問題意識がわが国の消費者の中にも形成されつつあった。そういう情勢の下で、藤本敏夫さんが健康と環境にこだわりつづけた鴨川自然王国での仕事が、大手メジャーの食品ビジネスに関心を持たれつつあったのだ。
 「人の愛の深さと、人生の重さは計ることはできませんが、彼は激流のように、ある時は怒濤のように生きてきました。彼が今まで蒔いてきた沢山のすばらしい種は、もうすぐ、本当にもうすぐ花開くことがわかっていたこの時に、彼は逝ってしまいました。けれども彼が蒔いた種はきっと皆さんの土の中で芽を出し花咲かせてくれるでしょう。」
 告別式の終わりに、喪主の藤本登紀子さんがそう述べた言葉がじーんと私の胸を打った。
 藤本敏夫さん。昭和19年生まれ、元反帝全学連委員長。獄中で歌手の加藤登紀子さんと結婚。出所後、農の再生に人生をかけることを決意。
 昭和51年、藤田和芳(現・大地の会会長)さんらと、有機農業をサポートする「大地を守る会」(後に大地の会)を結成、代表に就任する。さらに、有機農産物の販売を行う株式会社大地を設立し、代表取締役社長に就任。8年間の苦闘の末、(株)大地の事業を軌道にのせるが、「都会のコンクリートのカベに囲まれた家にいて、無農薬野菜を食べる豊かで便利な生活」に根本的な疑問を感じ、大地の会を離脱、自然王国運動を提唱し、房総の山中に鴨川自然王国を建設、仲間と共に農的生活を実践する。
 平成3年、有機農産物の環境・品質基準と品質管理を行う(株)農業食品監査システムを設立(代表取締役)、そして、平成13年に(株)ナチュラルコミニュケーションズを立ち上げる。まさに、藤本敏夫さんの人生はロマンに満ちた激流のようでもあった。

◆交錯―パストラルネットワーク

 私が初めて藤本敏夫さんと飲んだのは、私がJA全中に勤めていたもう20年以上も前であったが、彼と私の人生が交錯したのは実は近々、この2年間ぐらいのことであった。
 私は、平成12年に農林年金の福祉施設である虎ノ門パストラルと南熱海パストラル松風苑を運営する株式会社パストラルの設立と経営の任に当たるため、JA全中を退き新会社の代表取締役についた。
 私は、ホテル事業の延長上に、パストラルを結び目とする都市と農村の多様な企業と人のネットワークを組織し、パストラルの仲間、ファンづくりを進めると共に、新しいビジネスの在り方を一緒に考えていくことを構想していた。
 この構想は、、平成13年7月に、パストラル・ヒューマンビジネス・ネットワーク(HBネット)として、地方のJAや自治体、第3セクターも含め、およそ200の企業・団体・個人の会員により設立されるのだが、このHBネットの顔とも言うべきアドバイザー委員長に藤本敏夫さんが就任してくれたのである。ただ、この頃すでに藤本さんはガンと闘っていて、13年の8月頃は大手術をするという容態でもあった。
 そんな容態であるにもかかわらず、あの平成13年9月11日に私達が開催したHBネットの交流会に藤本敏夫さんはかけつけてくれて、「21世紀は多目的農業の時代」と題する講演で熱弁をふるってくれた。すごい講演だった。デフレスパイラルで価格の引き下げ競争の土俵に引きずり込まれたら、もう企業にも農業にも出口がなくなる。企業にとっても、農業にとってもこの時代を突破(ブレイクスルー)する切り口は“健康と環境”なのだ。そして、農業は単に食べ物を生産する産業の枠に押し込めず、健康・医療・教育・レジャーに及ぶ総合的生命産業として再生すること、我々の生活を農を分母にした農的な生活に変えていくこと、これこそが食べものとエネルギーの自給と自立、資源の持続と循環を通じて環境を守る、そういう趣旨だった。
 HBネットは、その後「団塊の世代の定年と社会変化への対応」というテーマで連続3回のシンポジウムを開催するのだが、藤本敏夫さんはそのいずれにも病院に入院しているにもかかわらず、パネリストとして出席し、議論を終始リードしてくれた。平成14年4月19日のパネルディスカッション、藤本さんはただの1回だけ、渾身の力をふりしぼって30分ぐらい発言した。その結びはこうだった。
 「菜の花で油を取って、そのオイルで内燃機関を動かし、最終的には水素を取り出して電池をつくり、自動車を走らせる。私たちはそういう意味でとても楽しい時代に遭遇してきています。食べものとエネルギーの自給ということが考えられる時代になったからです。健康と環境、持続と循環、自給と自立というのがこれからの時代の基本的テーマなのです。すみません。ものすごく時間をとって。もう、しゃべれません。」
 この日が、私が藤本さんとお会いした最後となった。

◆最後の問題提起

 その後、藤本さんは「持続循環型田園都市と里山往還型半農生活を、エコファーマーとウェルネスファーマーの連携で創出する」と題する政策提案を農水大臣に提起し、政策のコペルニクス的転換を求めた。藤本敏夫さんの志は生命の終わりの瞬間まであかあかと燃えていた。この“里山往還型半農生活”というのは、まさに藤本さんがつくってきた鴨川自然王国の運動を理論化した提起である。都会の市民達が里山里地に定住・半定住、往還し、地元農家の指導を得て食べものを自給する、言わば、国民皆農(ウェルネスファーマー)、生活の農的革命を考えていたのだ。
 「いま必要なものは農業の戦略です。人々の生活と社会のあり方に、農業の果たす多様な価値を総合的に判断し、あるべき農業形態を体系的に構築する『総合持久戦』の戦略戦術が要求されているのです・・・・環境、教育、レジャー、そしてもちろん食糧という生活・社会全域に広がる幅広い課題が農業の中に含まれています。農業の総合持久戦では、それらの課題を『生活・生命産業としての農業の再生』という統一テーマのもとに、明確に人々に提案し、食品生産業という分業化された枠に封じ込めないことが大切なのです。」(藤本敏夫『有機農業心得』)

 藤本敏夫さんは、正しく農の志士、農の革命児であった。 合掌


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