ルーマニアと日本がはじめて外交的接触を持ったのが1902年。今年は100周年になる。紀宮様が10月首都ブカレストにお見えになり、ルーマニア側はイリエスク大統領も同席し記念式典が粛々と行われた。日本とルーマニアは第2次大戦中に国交が断絶し1959年に再開されて以来、共産党時代も含めて良好な関係にあった。1989年共産党チャウシェスク政権が倒れたことを革命の年とルーマニアでは呼んでいる。
その革命で最も影響を受けたのが農業である。ルーマニアの農耕地の90%が、共産党時代は国に管理され国営農場と協同組合の集団農場で耕作されていた。革命後の1992年には、土地は旧地主と農業労働者に国から返還された。一人当たり平均2.4へクタールの小規模農地となった。国営農場は解散、協同組合の集団農場も大部分は崩壊し、農業労働者もちりじりに分散してしまった。このためルーマニアの農業生産力は急落した。革命から13年が経っても、社会主義特有の大型施設が利用されずに雨風に打たれながら、平原の真ん中に昔の姿をさらす農村風景画がいたるところに見られる。
しかしながら、旧集団農場の復活又は耕作が継続されているところもある。農地は日本の約2倍、チェルノーゼムという肥沃な黒土土壌で、ルーマニアの人口は2200万人。広大に広がる平原を見渡せば、ルーマニアはヨーロッパの大農業国になりうる国である。
主食は、パンに豚肉、鶏肉、羊肉。それにスープとサラダ。牛肉は少ない。穀物は大麦、小麦、とうもろこし、大豆、ひまわり。野菜はきゅうり、トマト、パブリカと生産が続く。果物ではぶどう、りんご、プラムの大生産国。ぶどう酒は東側が赤ぶどう酒、西側が白ぶどう酒生産地と大まかに分類できる。
ルーマニアのぶどう酒の販売力は弱い。農家でも一般的な1戸建て住宅でも庭があればぶどうの樹があり、自家製のぶどう酒を造る。酒になる前のぶどうジュースも自家製である。酒店で銘柄ラベルのついたぶどう酒を買ってまで飲む習慣はないようだ。自家製のぶどう酒の方がよほどうまいという。
ルーマニアのぶどう酒は生産量のほとんどが輸出に回される。フランス、ドイツ、イタリアなどの有名ぶどう酒生産国へ原料として売られる。販売先のぶどう酒とミックスされて有名ブランド名がつき、高い値段のぶどう酒になり、ドイツやイタリアから日本などへ輸出される。そのことへのルーマニアぶどう生産農家の不満は大きい。ぶどう園の拡大適地は未曾有にあるのに、手持ち資金がない。ぶどうを育てる肥料、病害虫の予防の農薬代が払えない。更に販売用ぶどう酒のワイナリー及びビン詰め工場を新しく建設する費用など無理、外国からの投資を待つのみというぶどう生産者組合が多い。社会主義計画経済から、市場経済への移行はまだ途上にある。
世界経済ブロックがアメリカ、アジア、EUの3大ブロックに分かれつつあるとすれば、EUは加盟国を増やしたい。2004年のチェコ、ハンガリー、ポーランドなどヨーロッパ10カ国のEU加盟が今年12月に決まる。ルーマニアはブルガリアと共に2007年にはEUへの加盟が認められる予定である。その際、農業が一番の問題となる。
人口の40%が農業、ルーマニアの農業が本格的に生産力を増強すれば、隣国への影響が大きい。ルーマニアからの安い農産物輸出でEU主要国が困る。ルーマニアは13年間、化学肥料も農薬もやらなかったから自然農業、自給農業または観光農業のままで留まれというEU農業大国側のうがった圧力もあると聞く。そんな状況の中で、日本式モデル農協を設置してルーマニアの農業復興に賭けたいという動きがある。経済的には貧しいが美しい心と自然の残っている国である。