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シリーズ わが青春の協同組合−−1

先見の明で奇想連発、夢を実現へ
大切なのは人のつながり、事業は黒字だらけ


JA岩手県五連会長 瀬川理右エ門氏
聞き手:(社)農協流通研究所理事長 原田 康

 賀川豊彦も宮沢賢治も道元も大黒様も、すべてを自己同一化してしまう土俗的で郷愁を誘うカオス(混沌)の世界が、会長の話にはあった。しかしJAの総合力を発揮し続けた実績が輝いており、語り口の説得力は抜群だ。先見の明にも驚く。それは効率性とか合理性などをねらう次元のものではないらしい。「私には余り欲がない」という。いくつかの奇想はそこから飛び出したようだ。「今も青春だ。農協運動にかけているのだから」と語る。

◆原点は「賀川豊彦精神」
  今も青春! 農協運動にかける

長瀬川理右エ門氏
(せがわ・りうえもん) 大正11年岩手県生まれ。湯本村青年学校卒。昭和23年湯本農協職員、56年湯本農協組合長、平成2年花巻市農協組合長、4年JA岩手県信連専務理事、8年JA岩手県中央会副会長、10年花巻農協代表理事組合長、11年JA岩手県五連会長就任。農協人文化賞受賞、名前は6代前からの世襲

 ――協同運動の立場から、食品の表示違反をどう思いますか。

 瀬川 「私どもは子供の時から、人間の健康に役立つ食料を作るのが百姓だと思い込んできましたが、昨今はそんな考え方が忘れられた感じですね。安ければよいというのでは農産物輸入も増えますよ。私は20年以上も前から輸入品の有害性を調べさせたりもしてきました」

 ――JAグループ内の不祥事をチャンスと捉え、輸入品との競争に勝てる国産品づくりを改めて農協の組合員段階で、よく話し合うべきですね。

 瀬川 「売れるものを作るには生産者と消費者をつなぐ人間づくりが必要になりますが、JAいわて花巻の場合は人材に恵まれて5年前に常設のファーマーズマーケット『母ちゃんハウスだぁすこ』を立ち上げ、2年目で売上げを5億円台に乗せました。人材育成の話では和歌山のJA紀の里が職員を一カ月間、だぁすこで勉強させた後、店舗を開きました。いわば分家ですが、今や売上げ10億円台で本家のうちをしのぎましたよ」

 ――人と人のつながりが輪を広げていくわけですね。

 瀬川 「そうなんです。例えば私が盛岡の街を歩いていると「園長先生!」と呼ぶ40代30代の男が時々います。なぜか。35年前に農協がつくった幼稚園の園長をやっていたからです。その園児がサラリーマンになって街にいるんです。卒園児はもう7000人以上になります。今はその子供が園児です。人間にはそんな長い付き合いや、つながりもあるんですよ」

 ――農協経営の幼稚園ですか。

 瀬川 「はい。最初は文部省も、とんでもない、とはねつけましたが、5、6回足を運んで、やっと認めてもらいました」

 ――幼稚園なんていう発想がよく出ましたね。

 瀬川 「“揺りかごから墓場まで”が私の協同組合論ですから。私は賀川豊彦先生の感化を受けましてね。著書を10冊ほど読んで〈おれの人生はこれだ〉と感銘し、産業組合に就職しました。昭和12年のことです。それが私の農協運動の始まりです。父は役場へ行けというのですが、私は役人はきらいだといって押し切りました。給料は役場が21円、組合が18円でした」

原田康氏
原田康氏

 ――お父さんは産業組合への就職に反対したのですか。

 瀬川 「話はさかのぼって昭和8年ごろ、実は祖父が産業組合の専務をしていたんです。名誉職の時代でした。東北地方大冷害で銀行破たんが相次いだ時、祖父は組合員の貯金は私の責任で全額払い戻しを保証しますと書面で確約しました。銀行預金の払い戻しが6割から8割の状況でしたから大変です。結局、家の田んぼ1町歩を処分したカネを産業組合に入れた上、さらに冷害が続いたため年間50俵のコメを5年間、組合に寄付して約束を守りました。そんな親の姿を見て父は産業組合は大変なところだと思ったんでしょうね」

 ――大地主だったのですね。

 瀬川 「戦後の農地解放では10町歩を解放しました。しかし原野も10町歩持っていたので、これを国営開墾で田んぼにし、今は息子夫婦が計13町歩を経営しています。まじめにやっていれば助かるもんです」
 「孫も目的なしの大学進学はやめて、好きな技術を身につけたほうがよいと家族で話し合った結果、自動車が好きなので整備士になり、農協の整備センターで働いています。指導者たる者まず足元を固めなければならない、というのが私の信念です」

 ――話は戻りますが、JAグループも賀川豊彦の精神にもっと学ぶ必要がありますね。

 瀬川 「それとね、地元の宮沢賢治。二人の論法をミックスすれば素晴らしい社会になるんじゃないかと夢見たこともあります」
 「夢といえば、温泉の話があります。介護問題の議論がまだ具体化しなかった10年前に農協は健康老人を支援する高齢者福祉施設『グリーンホーム落合』を建設しました。腹から声を出せば健康によいからとカラオケバーを設け、若い者をパートナーに色気を出してもらうダンスホールも設けた。泉脈が期待できない地質なのでお風呂は薬草入りの沸かし湯にした。ところが水道代負担が重過ぎるため自家水にしようと井戸を掘ったら温泉が噴出したんです」

 ――夢みたいな話ですね。

瀬川氏

 瀬川 「ほんと。井戸掘り予算300万円で温泉にぶち当たった。ところが毎分400リットルの湯量に対し使用量はその半分。川に流しているのはもったいないので今、健康によい『歩くプール』の計画を検討中です」
 「“揺りかごから墓場”の方針で、葬祭センター『黄泉園』も経営しています。ところが法事で帰郷する人は子供連れが多く、2、3日の宿泊費負担は重い。そこで同園の横に実費計算の宿泊施設をつくりました。有難いといってくれる祝儀が年間1億円にも上ります。それをグリーンセンターに回そうとしたが、そこも黒字だ。このため『だぁすこ』に回しています」

 ――多彩な事業展開ですね。

 瀬川 「総合力を発揮できるのが農協事業です。『農協・野田神社』(野田は地名)というのも創建しました」

 ――そりゃ、いったいどういうことですか。

 瀬川 「日本は八百万(やおよろず)の神の瑞穂(みずほ)の国ですから。まずは万物に恵みの太陽神・天照大神、次に豊作と縁結びの出雲の神・大国主命、それから今の日本は教育が荒廃しているから学問の神・菅原道真公。この3祭神を祭りました」
 「もちろん宗教に農協のカネは使えませんから、ご寄進を願ったところ5000万円集まりました。大学受験生の願掛けや合格祝いの寄進もあります」

 ――瀬川家は名家ですが、先祖代代の仏教徒ではないのですか。

瀬川氏

 瀬川 「曹洞宗です。若いころは農協運動に体を張ろうと一念発起して永平寺で2カ月間修業したこともあるんです」

 ――では最後に農業経営に体を張ろうという後輩に向けた言葉を何かお聞かせ下さい。

 瀬川 「いやぁ、いつもバカ話を交えて現実の課題を語り合っているんですよ。そのせいか組合員は農協から離れていかない。後継者も加入してきて、正組合員は増え続けています」
 「しかし農業はバカではできない。もし博士号をとるのなら農薬とか土壌とか気象、流通など7つくらいは取得するといった心構えがほしいですね。中途半端な人間が農業をやっているから、農業はダメだといわれるんです。プロとして生きがいを感じてやらないといけません」


(インタビューを終えて)
 理右エ門という古風な名前を襲名され、判っているだけでも6代目という名門ご出身の組合長奮戦記である。
 賀川豊彦の協同組合長思想に感化を受けられ、昭和12年(1937年)に産業組合に入られたというから65年間農協運動一筋に活動をして来られ、現在もなお青春時代の希望をそのままに元気一杯で新しい事業に取り組んでおられる。
 35年前というから昭和40年代始めの頃に、農協が幼稚園を経営、今ではその世代のお孫さんが入園するという歴史を持ち、地産地消のさきがけで「母ちゃんハウスだぁすこ」から、「グリーンハウス」薬草の風呂を作り、水道代にネをあげ自前の井戸を掘ったら温泉が湧いて出たという愉快な農協である。
 コメ、野菜、果実、畜産、花、とバランスのとれた生産と販売をしっかりと守り、地域に根をおろした総合農協の強みである。
 瀬川会長のお話を聴いていると、よき時代の農協がまだ健在なのだという安心感と同時に、農協は市場経済の中を右往左往しなくても、組合員と地域に根を下ろした仕事をして
いればあわてる必要はないことを改めて痛感した次第である。(原田)




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