|
田中秀一氏 |
農閑期の冬でも午前4時に起床
田中さんが確認している『親父の日記』のもっとも古いものは1929年(昭和4年)の元旦から始まる一冊。
1月5日には「…妻が産のために里帰りをなすので送り方々年始に行った…」と記されている。秀一さんの父、田中連(むらじ)さんは、20世紀最初の年、1901年(明治34年)、松本市近郊の和田村(現在同市和田)に生まれた。この日は、妻、みよのさんの出産のための里帰りに同行したのである。
そして22日、「一生を通じての一大事として本日朝、自分の子が生まれ、男の子であると義兄が(知らせに)来てくれたので父に相談して餅米を洗い、せいろを持ち出した…」。このとき生まれたのが秀一さんだ。
連さんは、9人兄弟の長男だが母が早く亡くなったため、父と共に養蚕と米づくりに励みながら、母親代わりの役割もしたという。日記には、兄弟の食事の世話、学校への送り迎えなどの日常も描かれている。毎日の起床時刻も几帳面に書いているが、農閑期の冬であっても午前4時、5時などと記されているほどだ。
繭価、米価が暴落 農村不況が襲う
そんな連さんに結婚1年目のこの年の初め、待望の長男、秀一さんが生まれたのである。しかし、日記にはむしろ暗い話題が次第に多くなっていくという。
この年の10月24日には、ニューヨーク株式市場が大暴落、世界恐慌の嵐は日本にも及び、当時の主要輸出品であった生糸を直撃する。この年の生糸の価格指数を100とすると、1932年(昭和7年)には36にまで落ちた。
繭価、米価も暴落し、さらに昭和6年には東北・北海道を凶作が襲い、農村では生活のため娘を身売りするような悲惨な状況になった。和田村も例外ではなく、日記には「繭一貫目2円」などという記述もしばしば出てくるという。
当時の農家の現金収入は養蚕から得ており、和田村では春から晩秋にかけて4回、繭が穫れた。暴落前は1貫目4円が相場だったというから半値に下落したことになる。
電灯からランプへ 協同運動が広がる
こうした状況のなか、昭和5年の後半になると「電灯料金の値下げ問題」という記述が連日のように出てくるようになる。
秀一さんによると、村に電灯が入ったのは昭和の初めころではないかという。しかし、この農村不況で電気料金を支払えないほどみな窮乏し、連さんは仲間とともに電気料金の値下げ要求運動に乗り出す。
「…電灯の需要者大会開催の具体策を検討。2台の自動車にて宣伝ビラをまくことも協議した…」。
秀一さんによると、連さんは当時、産業組合青年連盟に所属して活動していた。仲間とともに計画した需要者大会は12月に開催された。
「各村の有志、応援と警官隊が多数集まっていた。7時開会。…自分は宣言文を朗読。皆共鳴し、…演説が続く。然れどもその言語が治安維持法にでも触れたのか、中止となった。議場騒然となって制止すれどやまず…。再開後、名士引き続き発言…」などと記されている。
しかし、電力会社は需用者の値下げ要求に簡単に応じるはずはなく、日記ではこの大会を機にまさに争議へと発展していく様子が描かれている。
翌年には、弁護士と相談し供託金「420円39銭」を集めて法的手続きをとり「集金人が来ても払わないように申し合わせる」。
そのうち電力会社は料金未払いの農家に対して「断線」という措置に出始める。
しかし、それに対して、連さんたちは、「朝4時に起きて断線への警戒に従事」し、さらに「断線に対する同情消灯」を申し合わせて仲間の結束をはかるとともに、「ランプと石油の共同購入に対する村費補助を求めること」に取り組んでいくのである。
これは電気が止められた家に歩調を合わせ他の家にも電灯使用ボイコットを呼びかけたもの。その一方で共同でランプ使用に切り換えようという運動を作り出していったのだ。
連さんたちは、この運動を徹底して進めようとしたようで「婚礼にあってもランプ使用をすすめること」を申し合わせている。
電灯が導入されて便利になったのもつかのま、逆にランプの時代に戻ろうと呼びかけたことになる。
それでも電力会社は料金の集金に集落を訪れたが、「なぜ集金するのか、来るなら決死の覚悟で来いと皆で言うと驚いて帰っていった」などと記されている。
ただし、村議会は、ランプと石油の共同購入費への補助を当初は認めず、ついに3月には各家庭から電球を集めて電力会社に「返還するため野麦街道を歩き松本市街地内へ」と訴えに行くという抗議行動に出る。
その後、役場や電力会社から調停案を示されるなどの記述が続き、争議は昭和6年の6月ごろに終わったようだ。最終的な解決策について詳細な記述が日記にはないが、解決金の分配について話合われたことなどが記されている。
地域が思索と運動の原点
秀一さんによると、連さんには特に思想的な背景はなく、「農業者として農村で生きるための純粋な闘いだったのではないか。当時の農村の窮状を象徴する争議だろう。生活のなかからやむにやまれず組織的な運動をつくりあげていった」と話す。その後は、村会議員も務めている。
しかし、戦時体制になると農業団体は統合され連さんは集落のまとめ役として、国への農産物供出の完遂に奔走しなければならなくなった。
そして、戦後は農地解放が始まると農業のかたわら農地委員も務めた。亡くなったのは、昭和63年である。
一方、秀一さんは、終戦の翌年に学校を卒業、後継者として農業に従事。青年団活動と農協青年部活動の後、34歳で旧松本平農協の理事になる。それから昨年まで35年間、理事、組合長として農協運動に精力を傾けてきた。
その間、終始、運動の基本を集落活動や組合員組織の大切さに置いてきた。「地域協同組合としての農協」が持論でもある。
そこには、集落で農業機械や農薬などについて研究したり、生産組合をつくうたりした若い日の仲間との体験がある。
「親父は、手間が肥やしだというほど、労を惜しまず働いた百姓。農業のなかに生活があるという時代に生きあまり合理的ではなかった。しかし、私は生活のなかに農業があると考え、機械化や酪農など多角経営にも取り組むべきだとよく親父とは激論になったものです。集落での仲間づくりも、私がめざした農業を実現するためでした」。
若い頃には意見が対立した父親の日記を読み返し始めたのは、亡くなった数年後から。電灯争議については昔聞いて知ってはいたが、生々しい記録に接したのは初めてだった。
そこにあるのは自分と同じようにまぎれもなく集落から広げていった運動――。戦前と戦後では体制が大きく転換し、父の若い頃と自分の活動の間にはむしろ断絶があると思っていたが、集落という暮らしの場の視点で見るとつながりが改めて感じられた。
そして今、集落には農業者だけでなくさまざまな人々が暮らすようになっている。
以前は「貧しさからの解放」が協同活動の目的だったが、経済発展のなかでそれほど大きな問題にはならなくなった。
しかし、それに代わって高齢化対策、環境の悪化、教育問題など将来への不安が広がっている。これらはもちろん農業者だけではなく、地域全体の課題である。
「誰しも生きていれば地域をよくしようと思うはず。人のことをいかにして自分のことと感じられるか。“心の協同”が協同組合運動のテーマになる。集落から果敢に取り組むことが21世紀にも大切だと思う」。
親から子へ伝わった思索と運動。それをさらに次世代に伝える感性を持つことが私たちに問われている。
|