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20世紀を振り返る
 
座談会
激動の世紀から「農」が輝く時代へ


(出席者)
全国稲作経営者会議会長 五月女 昌巳
元丸紅(株)専務、元セコム(株)副会長 小島 正興
東京大学大学院教授 
八木 宏典


 20世紀はどんな時代だったのか。戦争、経済恐慌と高度成長、人口爆発と飢餓人口の増大、科学技術の発達と環境破壊――。まさに激動の時代と言えるだろう。そのなかで日本の農業、農村も大きく変わってきた。とくに経済成長が続いた今世紀の後半は、人々が都市に集中し農村では過疎が進行、そして都市と農村を対立させて捉えるような意識も強まった。しかしながら、この世紀の終わりを迎え、次の世紀の暮らしを見つめたとき、今、多くの人々が「農」の価値に気づき始めている。ここでは、私たちの暮らしに密着した食料、なかでも米をめぐる農業、農村の変化を振りかえりながら、21世紀に私たちが、そして協同組合がどう生きていくべきか、語りあってもらった。

日本農業が市場化に巻き込まれた100年

 八木 この100年は、明治の末から大正、昭和、平成という時代にあたり、大正の米騒動、昭和恐慌、第2次世界大戦を経て、戦後の復興、高度経済成長、そして農業政策では農業基本法と食料・農業・農村基本法という2つの基本法の制定がありました。最初に、小島さんからこの100年についてどうお考えなのか、お話いただけますか。

(こじま・まさおき)大正12年8月神奈川県生まれ。東京帝大農学部農経卒。直ちに経済安定本部に勤務。昭和25年丸紅(株)入社、業務部長、広報室長等を経て、昭和49年常務、昭和55年専務。昭和59年セコムに移り副社長、副会長を経て平成9年退任。現在農林中央金庫監事等。

 小島 まさに日本の農業にとって激動の時代だったと思いますね。1901年は、日清戦争と日露戦争の間になるわけですが、それから今日までを日本が近代国家として成立していく過程として捉えることができます。基本的には日本の生産力をいかに拡充していくかという時期ですね。
 それを確立するために国家の政策や助成が全部集中されていた。これは農業だけじゃなくて、もちろん鉱工業もそうです。
 19世紀は産業化の時代、20世紀は経営者の時代、とよく言われますが、日本の場合は、20世紀の前半までは産業化の時代と考えていいんだろうと思います。その後、戦後になって経営者という問題がだんだん出てきた。これは農業においてもまったくそのとおりだと思います。

 大正末期から昭和の初めまでを考えると、金融恐慌があって、その後、昭和7、8年頃に農業恐慌が来るわけですが、その時代はまさに日本の産業力がどんどん強化された時代です。そして一方において市場化がものすごく進んだんですね。ですから、市場化にどう対応していくかという問題が出てきた。  それまでももちろん蚕種や綿花、油脂原料など市場の影響を受けていましたが、本当に影響を受けるようになったのは昭和に入ってからと考えられるんです。そういう意味ではやはり市場の問題が20世紀において出てきたと思います。産業化を進めるために、それまでは国家は農業に対しても相当介入していたわけですが、とくに戦後は保護がなくなって農業も市場にさられされるようになってきたと思います。そして農業も市場化に対応していくために経営を考えなくてはならなくなったのが、戦後の一番の問題じゃないかという感じがしますね。

 八木 非常に感慨深いのは、昭和恐慌のあと米穀法ができて昭和17年には食糧管理法が施行されて、米の価格については国が決めるということになったわけですが、この12月に最後の米価審議会が開かれたことです。米価審議会は来年の1月5日をもって廃止され、食料・農業・農村政策審議会の主要食糧分科会にその機能が引き継がれることになっています。そういう意味では小島さんがおっしゃったように、まさに市場化のまっただなかに日本の農業が巻き込まれていると思います。五月女さんは、この時代を振り返ってどんな感慨をお持ちでしょうか。

 五月女 私が就農したころの農家、農村は、自分の親父やじいさん、あるいは隣のおじさんの哲学をどう学ぶかという気持ちがありました。当時は、食料増産が求められていた時代で、私の家の農地も当初は、たばこを生産していたんですが開田ブームで米を作るようになりました。同時に耕耘機、農薬も入ってきた時代で、まさに私は登り坂しか知らないという状況でした。
 ただ、そこには経営ということはまだ意識されておらず、増産、増産で米価も毎年上がっていきましたし、農民も米価運動を背にがんばっていましたからね。そういうなかでも、じいさんや親父がしっかりしていたからこそ、今日まで規模拡大ができたと思うんですよね。

 私は高校時代から跡継ぎだということで農業基本法や第一次構造改善事業についても考え疑問も持ってきましたが、経営ということは30代、40代になってからはじめて考えるようになったと思います。

無策だった土地利用型農業に対する政策

 八木 戦後の問題でいえば、農地改革による自作農創設を経て、やはり一番大きな政策的な転換は、農業基本法の制定だと思うんですね。この基本法の目的は、農工間の所得格差是正とか、あるいは選択的拡大、自立経営の育成という方向を考えてきたと思います。基本法については、いろんな評価があると思いますが、今から振り返ってみて農業基本法の功罪についてどうお考えですか。

 小島 基本法の目標は基本的には正しかったと思います。とくに選択的拡大というのは、市場化にいかに対応するかという点を農業経営のなかに深く浸透させようとしたんだと思います。
 ただ、基本法制定後には大きな問題がありました。自立経営の確立をめざすには、当然、一つの経営単位としてはっきりと収益が上がり、しかも資本蓄積もしていける体制をつくらなければならないわけです。しかし、問題は、そのときに土地利用型農業に対する政策が全然なかったことです。

 とくに稲作の規模拡大についての政策がなかった。農水省には、10数年前に農地改革をやったばかりだから、ここでまた農地の移動や規模拡大政策を推進するのはどうかという気持ちがあったんでしょうか。しかし、1ヘクタールや2ヘクタールで自立経営をやろうといっても無理なんですよね。花や果樹であれば可能かもしれませんが、一番重要な米、麦、あるいは甘藷といった土地利用型農業には施策がなかった。
 にもかかわらず農工間の所得格差を是正するという目標を掲げたわけですから、結局、政策手段としては食管法による米価に頼るしかなく、米価の引き上げがどんどん行われたわけです。それによって農業所得がある程度確保された面がないわけではありませんが、非常に大きな弊害となったのは農業内部における資源配分をいびつにしてしまったことです。全部、米に行ってしまったわけですよ。だから、米は生産性は上がる、さらに増産はするということになったわけです。そのかわりそのほかの作物には力が入れられなくなった。

(そおとめ・まさみ)昭和20年栃木県生まれ。米価審議会委員、全国農業経営者協会副会長、全国稲作経営者会議会長、環境ホルモン研究評価委員、栃木県農政審議会委員、栃木県農業士会会長、栃木県農業会議常任委員。

 さらに稲作は本来、規模拡大しなければならないのに、米の価格がどんどん上がるものですから、それも進まなかった。その原因は、基本法では、家族農業を前提にしていたものですから、その前提では家族経営が10ヘクタール、20ヘクタール規模にするのはおかしいという気持ちがどこかにあったんだろうと思います。加えて先ほど指摘した農地法をめぐる呪縛があって、政策展開がうまくいかなかった。ここにいちばん大きな問題があったと思いますね。

 ですから、旧基本法は理念としては正しかったと思いますが、政策の展開の仕方には非常に大きな問題があったという感じがしますね。

 五月女 旧基本法が制定されたのはちょうど高校2年生でした。そのとき地元に並木正吉先生がやってこられて農業基本法について講演したものですから聞きに出かけたんです。
 ただ、話を聞いて機械化を進めるといっても当時は私の高校の教師も組み立てられませんでしたし、優良品種の開発もされないままで、自分たちの農業経営が実現するのかなどの疑問もあって、高校生でも分からない基本法はだめだ(笑)と思ったんですが、それでも構造改善が進むことや機械が入ってくることはいいことだとは受け止めていましたね。
 しかし、実際は先ほども指摘があったように、米価に支えられて、自分自身の経営を考えるのは二の次になった面があると思いますね。

ウルグアイ・ラウンド契機に一気に自由化したことが問題

 八木 ご指摘のような国内的な動きとともに、やはり戦後は農産物貿易の自由化がすすみ、食料の自給率が下がってきたという問題があると思います。その最後の大きな動きが1993年のガットのウルグアイ・ラウンド農業合意ですね。米についての特例措置を除いてその他の農産物は関税化され、いわゆるグローバリーゼーション、市場の自由化が進んできたわけです。この点についてはどうお考えですか。

 小島 ウルグアイ・ラウンド合意によって米のミニマム・アクセスを受け入れたわけですが、それによって日本の米の生産が下がったかといえば下がっていないわけですね。心理的な影響は確かにあったんですが、ミニマム・アクセス米は市場から隔離されることになったのですから経済的な影響はあまりなかったと思うんですね。むしろ問題なのは、ウルグアイ・ラウンド合意を契機として国内の米の政策が変わったことです。今までも自主流通米制度の導入以降、食管法はどんどん変わってきたわけですが、それがウルグアイ・ラウンド合意以降は国内で自由化が進められ、それによって大きな問題が起こってきたんじゃないか。

 それ以前に米の価格だけが高くなってしまっていて、しかもどの米も同じような価格にしてきたところに問題があったんで、本当ならウルグアイ・ラウンド交渉の前の段階で、米も市場化に対応するような政策をとってくればよかったと思うんですね。それがウルグアイ・ラウンドをきっかけに、国内も一気に自由化してしまったことがおかしくしたんだと私は思います。

 五月女 私は、ウルグアイ・ラウンド合意があった夜にちょうどアメリカ大使館に呼ばれたんです。そこで公使から、今日は日本政府からサインをもらったけれども君はどう思うかと言われたんですね。けれども私は、私はウンとは言っていない、と言ったんです(笑)。それでも、加工米の輸入もだめか、と言われたものですから、われわれには他用途米生産ということがあるんだ、と言い返しました。
 旧基本法が制定された当時は、穀物自給率が76%もあったわけですが、そのころちょうどバナナが自由化されたと思います。そのとき、輸入するのはいいけれど本当に外国が保証してくれるのかと思ったんですが、ウルグアイ・ラウンド合意での米の問題も同じで、ただ輸入しろと言っているだけで確実に輸出を保証する制度があるのかということですね。やはりわれわれ作る側とすれば、日本国内できちっと作って消費者に食べてもらうことが大事で、ここは一歩も譲るべきではないとそのときは思いましたね。

 ただ、冷静な判断、本当に自由化がなされたときにどうすればいいのか、という考えまでは至らなかったですね。やはり経営者ということであれば、そこまで視野に入れてどういう勉強をすべきかということを冷静にやらなければならなかったと思います。

(やぎ・ひろのり) 昭和19年群馬県生まれ。東京大学農学部農業経済学科卒業、農学博士。主な著書に『水田農業の発展論理』(日本経済評論社)『カリフォルニアの米産業』(東京大学出版会)など。現在、米価審議会会長など。

 小島 そのときは、米は一粒たりとも入れない、というスローガンが前面に出ました。しかし、実際問題としては、砕米やもち米が一部輸入されていたわけですから、あの段階で、一粒たりとも、と農政当局や農業界が言ったこと自身がおかしいと思うんですね。国会決議までして、まったく輸入はされていないという印象を与えてしまい、現実にはあり得ないことなのに、それを守っているんだという感じも与えてしまったと思います。あれは本当にまずかったと思いますね。あのときは、米の輸入は仕方がないと一言でも言えば袋叩きに合う雰囲気でしたから。

 八木 私は1988年から89年にかけてカリフォルニアに滞在していたんですが、驚いたのは牛肉の自由化の問題で日本のほうは自由化されたことを問題にして大きく議論していましたが、一方、アメリカの生産者は、レーガン政権が自由化を実現したけれど、輸出される牛肉は実は日本の企業に押さえられているのだから、これからはわれわれは牛肉の下請け生産者になるんだ、という論調もあったんですね。

 米についても80年代半ばは在庫が過剰で価格が低迷して、たぶん稲作農場の収入の半分ぐらいは不足払い制度で賄われていたんですね。元気がなくて、とにかく少しでも買ってもらえればなんとかなるという気持ちで、あまり大上段に振りかぶって米の市場開放を議論していたわけではなかったと思います。ですから、農業交渉についてもう少し正確な情報を国民に流してもらえば、関税率はどのように設定できるのか、どういう仕組みを考えていったらいいのかといった次善の策が考えられたんじゃないかなと思いますね。

農業者と消費者が米や価格についてもっと論じ合う場を

 八木 その後、食管法に代わって新食糧法が制定されましたが、生産者としてはどのように受け止められましたか。

 五月女 発表されたときは開けた制度だなと思いましたね。作る自由、売る自由がまさに前面に出てきたわけですから。稲作経営者会議でもすごく喜んでいたんです。
 しかし、検討してみたらこの制度には相当縛りがあるんだということが見えてきたわけですね。当然、転作もしなければならないわけですが、集落を抜け出すことができない農業にとって、やはり作る自由はない、と。売る自由も、ヤミ米が計画外流通になったわけですが、それにも縛りがかかってきてなかなか自由にできないということになってきました。
 やはり、日本社会の2面性といいますか、それが表に出てきて、結局、経営者ではなくなってしまうんです。そういうところがこれまでは残念でならなかったですね。

 小島 自由度は高まったと思いますが、それは小売り段階の自由がものすごく進んだということでしょう。ただし、集荷段階においての自由度には縛りがあってその間のギャップが大きいと思いますね。
 さらにもっと大きな問題というのは、集落での自主的な減反とはいうものの、それほど自主的にできるはずはないので、そうなると集落のやっている生産調整が本当に市場対策として行われてきたのかということになると思います。
 ですから、本気になってこれ以上に米の価格を下げたら大変だ、在庫が増えたら大変だ、ということで自主減反を農協が全国で推進するというのはまったくそのとおりだと思いますが、一方ではそれまでの価格が硬直的でしたし、減反のほうは自主的というよりも割り当てとして上から降りてくるわけですね。この点が市場化するといいながら、非常に中途半端な市場化となり、政策の一貫性、透明性を欠いたものにしたんじゃないかという感じがします。

 八木 国民の食料消費という視点から考えると、昭和40年代の食料供給の44%は米だったんですね。しかし、現在は25%ぐらいに落ちてきているわけです。人口は若干増えましたが、米の消費量は減ってきているわけですから、そういう米の需要量を前提とした生産を生産者が工夫していくことを考える必要もあると思いますが、そのあたりの情報が生産者に全然伝わっていないため、強制的な減反ということになる。そこにかなり問題があると思いますね。

 五月女 私は、生産者サイドの価格は、生産者自らがつくるべきだと思うんですね。しかし、実際に直接販売をしていて感じるのは、消費者との話し合いというよりも、むしろ契約を取りまとめる組織の方々の意向が強く、その顔色を見ながらということになっています。ですから、農業者の運動にしても、消費者の運動にしても、米について価格も含めて論じ合う場を作るということを忘れてきたことも大きな問題だと思います。

農業への関心の高まりにもっと農業側が素早い反応を

 八木 さて昨年は、農業基本法に代わって、国民的視点、あるいは消費者の立場も含めて施策を考えるという「食料・農業・農村基本法」が制定されました。この基本法制定も画期的なことだと思いますが、いかがお考えでしょうか。

 小島 国民の食料、農業に対する考え方はこの10年でものすごく変わりました。博報堂生活総合研究所の調査をみると、食料の安全性について関心を持つ人は1990年には74%でしたが、99年には77%になっていますし、将来とも食料供給に不安はないと考えている人が90年には68%だったのが、99年には50%にまで減っています。つまり、食料の安全保障に対する関心は高まってきているんですよ。
 これは財界でも同じで、問題はこういう関心の高まりをもっと早く農業側が吸い上げなくてはいけなかったと思いますね。そうすればもっと早く的確な新しい基本法が制定できたと思います。

 八木 新基本法では農業の多面的機能、あるいは環境にやさしい農業という方向も出されているわけですが、一方ではさらに市場原理を導入しようということになっています。水田農業はとくに環境との関わりという点では中心的な作物だと思いますが、一方で環境を守れ、他方では効率を上げろ、ということになっていますが、現場ではどう受け止めていますか。

 五月女 基盤整備事業という目に見える部分では、河川改修も含めて環境に優しい方向になってきているとは思います。ただ、われわれのところへ来る消費者がまず聞くのは、農薬の空中散布やってますか、ということなんですね。
 それについては、こういう農薬をこのように使っていて、しかも適切な時期に散布していますよ、という説明をすれば理解は得られるんです。そういう理解をしていただくことも、経営にとって重要だと考えています。

 私の農園には、田植えから草取り、稲刈りまで年間通して1000人ほどの消費者がやってくるんですが、そうすると農家のやっていることが非常に目に見えてきたという声が出るんです。私たちは、販売している米の袋に塗り絵をつけていてそれを送り返してもらい、こちらからは交流会の案内状を出すんですが、米づくりをもっと知りたいという声が届いています。
 また、一昨年から自宅でのバケツ米づくりやってもらっているんですが、絶対に殺虫剤はかけないでくれ、と言ったんですが、かけてみた人がいた。そうしたら、稲が枯れちゃった、というんです(笑)。それで、みなさんのほうこそそういう劇薬のなかで暮らしているんですよ、とこちらは話す。
 やはり新しい基本法はこうしたことをめざしてるんじゃないかと思うんですね。だから、生産者と消費者の両方で話し合う場を農業者が作り出していくべきでしょう。今までは、作ることだけどんどんやっていて売ることは人任せだったんですね。そういう意味では、農協は、われわれの組織ですから組織のなかに入って改革も進めなくてはなりませんし、組織人として提言も今後していかなくてはならないと思います。

 それから、売るということでいえば、つい先日、埼玉県のある町で販売促進のイベントをやったんですが、そのとき、正月が近いからと持っていった竹と松がよく売れたんです。つまり、一切加工しないでも高値で売れる。自分たちで正月飾りを作ってみようということなんですね。
 それで、われわれも考え方が間違っていたなと思ったんです。米でも5分づき、7分づきなどが人気がありますが、それはお客さんが選ぶことであってわれわれが選ぶことではないですね。無洗米も人気ですが、それを好む人もいればそうでない人もいるわけです。なかには、玄米のままでいい、虫が入っていれば自分たちで取りますから、という言い方をする人もいます。だから、お客さんのニーズをどれだけ吸収して販売に結びつけるか、経営に結びつけるかが大事ですね。

 八木 小島さんは、先ほど経営者の時代ということを言われましたが、それが現実に目の前にあるというお話ですね。

 五月女 農業祭などがよく行われていますが、全部売れた、よかった、よかった、とその日で終わってしまうんですね。それが次の日に続くのが経営なんですよ。お祭りから経営へ。イベントでやっているようなことを毎日やることが経営なんです。

 八木 消費者側から見ると遺伝子組み換え品種のスターリンク混入問題など安全性に不安を持つようなことが起きていて、今後は、生産、流通、販売の仕組みも変わってくるんじゃないかという気がしますがどうでしょうか。

 小島 確かに変わるでしょうね。eビジネスなどによっても中間段階を省くことが可能になってきますから。ただ、個々の農家全部が自分で販売できるわけではないし、それこそ不経済な面もあると思います。それをどうまとめて市場流通商品として効率的に販売していくかという仕組みがでてこなければならないと思いますね。
 米でもそれができるはずなんですが、今までは集めて売ればある程度の価格で売れて、最近のように売れずに価格が下がるという経験をこれまではしていないんですね。ですから、これからは農協の事業が非常に重要になると思います。ただ、農協は経済事業にはあまり力を入れていないんじゃないでしょうか。
 販売、購買という経済事業が農協の一番の事業でなければいけないんですよ。戦前の産業組合はいかに業者から買い叩かれないか、あるいは大資本に対して高い肥料などをいかに売らせないようにするか、という目的で団結したわけです。そういった原点に立った市場対策が求められている時期にきているんじゃないでしょうか。

多様な国家の発展には国際機関がルールづくりと規制を

 八木 JAグループも今年の全国大会で改革案を決めていますが、農業協同組合の原点に戻って再構築していくことが必要でしょうね。
 さて、対外的にはWTO農業交渉の問題があります。先日、政府は日本提案を決めましたが、その基本的な考え方は、多様な農業の共存、ということです。この点について小島さんはどうお考えですか。

 小島 戦後の世界の貿易についての交渉は、今回の日本提案と同じようなスタンスだったんです。1940年代、50年代のガットの時代には、工業製品についても発展が遅れた地域についてはそれが育つまでは輸入制限措置を許そう、農産物はもちろんだ、という考え方だったんですね。ところが、ウルグアイ・ラウンドのころから、農産物も含めて自由化を促進するような考え方になった。だから、ガットの出発時点における考え方に立てばいいんであって、あれこそ多様な国家を多様に発展させるために、ハンディキャップがあるところはそれを認めるということですからね。

 八木 市場原理万能といっても、90年代後半には農産物の国際価格が下落して、自由貿易を主張しているアメリカでも生産者に対して3年間で2兆5000億円の緊急支援をせざるを得なくなっています。これはやはり完全に市場原理にだけ任せたのでは、アメリカでさえ農業が存続することは不可能だということだと思いますから、それぞれの国がそれぞれの事情に応じて何らかのセーフティネットを考えなくてはならなくなっていると思いますね。

 小島 その点で、日本は農業の多面的機能を認めさせようとしているわけでしょうが、そういう迂遠な主張をするよりも、多様な発展に対して国際機関はきちっとしたルールをつくり、それにそった規制をしていくべきだ、という主張をしたほうが分かりやすいと思うんですがね。
 それから、野菜の輸入の急増に対して緊急の輸入制限ができる制度があるにもかかわらず、日本はなにかもたもたして、これからヒアリングして半年か1年してからでないと発動できないなどと言っている。アメリカや中国はすぐにでも発動しているわけでしょ。どうして日本はできないのか。きちんと主張すべき点はきちんと主張しなくてはいかんと思いますよ。

 五月女 われわれの地域はネギの大産地が育ってきたんです。ところが中国からの輸入が増えてきて打撃を受けています。それを何カ月も放置したのでは産地はつぶれます。
 私は、適地適作という農業の基本に立った後継者の育成、産地づくりを考えるべきだと思いますが、それをないがしろにして、日本の企業が海外で生産して輸入するということでは世界全体の農業生産はおかしくなってしまうと思いますね。
 WTO交渉については、今度はもっと情報を公開して、今日本はどういう交渉しているのか、国民はどう理解してどう行動を起こすべきか、ということを伝えるべきだと思いますね。

 小島 先ほども言ったように国民の農業に対する関心は以前に比べて高まっていて理解する基盤はあると思います。ぜひ、情報公開してもらいたいですね。

市民・消費者という基盤を持った経営者の時代に

 八木 これまで日本は、経済を発展させることだけを考えてやってきましたが、いま改めて振り返ってみると様々な問題もあり、その中でとくに農業、農村の役割に対する見直し反省が出てきていると思います。今後は、農業に対する国民の期待が高まると思いますが、21世紀のわれわれにとっての課題はなにかについてお聞かせください。

 五月女 実は20世紀の最後になって苦い思いをしました。それは3年前の那須の水害です。戦後、山にスギ、ヒノキをどんどん植えてきたわけですが、山で働く人はどんどん都会に出てその結果、山や森の管理がおろそかになってあれだけの水害が起きたんだと私は思っています。
 私たちは、米の袋に「森の水車」と書いているんですが、これは遠くの森を見ながら川を利用して水車を回し、田に水を引いているというイメージなんですね。やはり水田も森があるから守られるわけで、その原点に立つと森もわれわれが維持管理していかなくてはならない。それが21世紀の大きな宿題だと思います。そのためには、行政も民の声を聞いて一体となって地域づくりをすることが必要だと思います。

 小島 21世紀は、自分でどういう経営なり行動を取るのかを考える時代だと思いますね。その点では、組織にしても個人にしても農業政策のあり方についての発言もこれまでとは変わってこなくてはいけない。自分たちはこうやる、それについて政策はこうあるべきだとね。最初に20世紀は経営者の時代と言いましたが、今は、昔のように環境の問題も無視し儲かればそれでいいということではありません。持続的な発展も考えなければなりませんね。そういう意味では、市民、消費者という基盤を持った経営者の時代が要望されてくると思います。

 五月女 消費者との交流のなかで、感激したのは、車イスの高校生がやってきて、お母さんが言うには生き物などこれまで一度も触ったこともないという。ところが、私の倅がその子を車イスから降ろして池まで連れていって、ほかの人と同じように鱒のつかみ取りに参加させたんです。お母さん、泣き出しましたよ。ほかに不登校の子も来ますし、家庭が崩壊しているような子も来ます。こういうように交流を深めれば深めるほど輪が広がっていくんですね。ですから私は農業経営者ですが、一方、農村の現場ではそういう弱い方々の仲間でもあると思っています。そこが農村でできる一番だいじなところかなと思っています。

 小島 これからの時代は農業や農民を特殊化してはいけないと思いますね。産業のなかの農業も特殊化してはいけないし、市民のなかの農民も特殊化してはいけないということです。自分たちは特殊だから特殊な政策を、と言うから段差ができてしまう。人間としては同じなんだから21世紀をどう考え、どう生きるか、その視点で考えることが大切だと思います。

 八木 農業、農村をもう一度人間との関わりで捉え直すことが必要な時代になっていると思います。そういう点では役割も大きいし可能性も豊かだと思います。今日はありがとうございました。



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