失ったものを数えるのではなく 得たものを数えていく人間になりたい
●人間には残された可能性が沢山ある
「ご存じの方も多いと思いますが、オリンピックの管轄は文部省、パラリンピックは厚生省なんです。だから、日本ではいくら私たちががんばってもしょせんリハビリの延長だとまだ見られているんじゃないかと思うんですね。
でも、今回の大会を見た人はそうは思わなかったのではないでしょうか。明らかに競技スポーツという認識で見てくれたと信じたいです」
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なりた・まゆみ 昭和45年神奈川県川崎市生まれ。中学1年のとき、脊髄炎で下半身マヒとなり、7年間の病床生活を送る。平成6年から水泳を始め、わずか1カ月後、東北身体障害者選手権で優勝。その帰路、交通事故にあい、右手指の一部に障害を負う。8年アトランタ・パラリンピックでも、世界新による2つの金を含む5つのメダルを獲得。シドニーパラリンピックでメダル7つ獲得。現在日本テレビ嘱託社員。 |
成田さんは1970年神奈川県川崎市に生まれた。13歳のとき脊髄炎で半身マヒとなり車イス生活を余儀なくされる。水泳を始めたのは24歳のとき。それまではカナヅチだったとか。
「小学校の6年間プールに入ったのは1回だけ。プールの時間と言われただけで、うっ、お腹いたい、と見学してました(笑)」始めたきっかけは、障害者の仲間から仙台で開く大会のリレーメンバーが足りないと持ちかけられたから。
「当然、泳げませんと答えました。でも仙台へ行けば笹かまぼこも萩の月もラーメンも食べられる(笑)。じゃあ、私行きますと返事したんです」
1カ月間の練習で泳げるようになり、大会ではなんと個人2種目でメダルを獲得。しかも大会新記録。
「その時に思ったのは人間には残された可能性があるということでした」
ところが、その帰路、交通事故で右手指の一部が動かなくなった。それでも仲間たちに「成田、また一緒に泳ごう」と励まされ96年のアトランタ・パラリンピックに出場、金2つなど計5つのメダルを手にする。
そしてシドニーを目指すのだが、今度は子宮筋腫があることが発覚、昨年の2月に手術して大会に臨んだのだと明かした。その努力は見事にメダル7つに。
「13歳のときに病気と障害を抱えてから本当にいろんなことがありました。でも、この30年間、得たものがたくさんあってそれがとても重たいんです。失ったものを数えていくのではなく、得たものを数えていく人間になりたいなと私は思っています」
●障害者といってもみんなと変わらない人間です
パラリンピックでメダリストとなった後、取材や講演の依頼が殺到し多忙な日々を送っているが、それも障害者の仲間たちのことを広く知ってもらいたいから引き受けている。自分自身も本格的に競泳のトレーニングを始めようと一般のスイミングスクールに入会を申し込んだがなかなか受け入れてくれなかったという経験も味わっている。
「電話での申し込みでは車イスを使用しているとは分かりませんから、最初はありがとうございます、無料キャンペーンをやっています、などととても感じがいい。ところが、私、車イスなんです、と最後に言うと、他をあたってください、でした。ひどいところだと車イスと言ったとたんにガチャンと電話を切られたこともありました」
6カ所めでやっと今のコーチと出会えて受け入れてくれたという。
仕事に出かけるときは駅での乗り換えによく苦労する。駅員さんに力を貸してくれるようお願いするが、「ほかの職員を呼んでこなきゃいけないからちょっと待ってて、とたいていぶっきらぼうに言われる」。しかし30分も待っても応援には来てくれなかったので、通行人に協力を依頼したら4人の男性が快くホームまで持ち上げてくれた。すると駅員が来て「何かあったときの責任は誰がとるの。勝手にそんなことされたんじゃ困るんだよ」といわれたこともあった。
「こういうとき私は言い返すことにしています。人間誰でも障害者になるんじゃないですか。早いか遅いかの問題じゃないんですか。年をとればいままで登れた階段に時間がかかったり、膝が痛くなったりします。あなただって将来車イスに乗る日が来ると思う、と。障害者といってもみんなと変わらない人間です。たまたまどこかにハンディがあるだけ。意識を変えてもらいたいと思います」
それでも自分は車イスに乗っているから、足が悪いということが周囲に分かってもらえるだけいいのかもしれないと思う体験もした。仲間には目に見えない病気や障害を持っている若者も多い。
「友達がこう言ってきたことがあるんです。足の調子が悪かったんで満員電車で席に座っていたら怒られた。お年寄りに席を譲るやさしい気持ちはないのか、と。足が悪いことをちゃんと言ったのと聞いたら、“もちろん言ったよ、そうしたら君はそんな嘘までついて座っていたいのかと言い返されてそれ以上何も言えなかった”、というんです。こんなことで苦労している人がたくさんいることを覚えておいてほしいです」
●誰もが必要とされて生まれてきたことを伝えたい
こんな体験と思いをユーモアを交えながらもしっかりと話す。障害者になったのが中学生のときだから中学、高校からの講演依頼も多いという。
「私は一時、生きていてもしょうがない、死んだほうがましと考えたこともあったんです。でも、車イスに乗っても私は私。成田真由美には変わりがない。そういう原点を確認できたとき車イスは眼鏡と同じ。どうせじろじろ見られるなら、とことん派手な車イスに乗っちゃえという考え方になれたんです。
私なんか生きていてもしょうがないと自殺しちゃう子どもたちが多いですが、必ず必要とされて生まれてきたんです。苦手な部分はあるかもしれないけど、それより得意なもののほうが数多くあるということを子どもたちに伝えるべきだと思っています」
●福祉や高齢者問題を思うと
スポーツ選手として食生活には気を使っているが、それだけではなく、かつての入院生活のなかで「ずっとご飯が食べられず久しぶりに食べたら、一粒ひとつぶに味があるんだと思えた」ことも大きい。田舎は青森県。りんご農家だという。
「生産者の苦労もいろいろ聞いています。お金があって食べられることは贅沢なことです。私たちのために作ってもらって本当にありがとうという言葉をかけたいと思っています」
成田さんのこれまでの人生を聞くと波瀾万丈といっても大げさではない。本人は「30歳でそうなら60歳になったらどうなるの」と明るく笑う。そして21世紀の望みを語る。
「月並みかもしれませんがやはり平和。福祉や高齢者問題を考えれば殺し合いをしている場合じゃないと思います。もっと考え方を変えてほしい。個人的には、この1年間のうちに結婚できればいいかな。予定はないんですけど」。
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