−俺たちが時代を変える− 地域農業の担い手 がんばる青年たち |
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●青森県 JA十和田市青年部 ・芋久保分会 (十和田市) ●東京都 JAマインズ青壮年部・遠藤好照さん (調布市つつじヶ丘) |
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本間さんはサラリーマンだったが、5年前に父が亡くなり、農業を継いだ。踏み切るまでには悩んだ。農業経験がないし、父が導入した大型機械の借金が残っていた。当時の経営規模は水稲4ha、ビール麦1.5ha、大豆1.9ha。 これは専業には小規模だ。かといって兼業では手に余るし、またサラリーだけでは借金が返せない。結局、規模拡大にかすかな望みをかけて専業の道を選んだ。 その後5年。母と妻の計3人でがんばり、規模をほぼ倍増した。今は水稲5.6ha、ビール麦3ha、大豆5haとなっている。 就農直後、農業経営に不安がいっぱいの本間さんにJA青年部の誘いがあり、すぐに入会。すると今度は「お前は専業でやっていくんだし、そんなに若くはない(当時34歳)んだから、早く友達を増やすためにも役員として、がんばってみねえが」と、そそのかされて?役員になった。 役員会で、本間さんが経営の夢である「水稲を中心とした土地利用型農業」の規模拡大を語ったところ、さらに今度は作物部会の役員入りとなった。 部会には同じ夢をもつ人たちが集まっていて、ここで栽培の技術やコツ、そして規模拡大の苦労や対応策などを学ぶことができたという。こうして本間さんは青年部や作物部会に支えられて規模拡大を果たした。 ところが、現実は「大きくやればやるほど、経営が悪化してきています」と本間さんの口は重くなった。農産物価格下落の打撃は大規模経営ほど大きい。 「コメは去年、豊作でしたが、値下がりで、収入はかえってマイナスでした。(米価のピーク時に比べ)毎年、100万円、200万円と落ち込んでいます。収入減は大規模ほど大幅になります」と腕を組む。 「面積拡大に必要な機械を導入すると、そのあとから、また米価が下がり、結局、機械化投資が一番高くつきます。それらの経費を差し引いたら、所得はいくらにもならない。私は青色申告ですから、採算は、すぐにわかります」と嘆く。 「最初はもっと水田を増やそうかと思ったけど、もうやめました」。 では麦はというと、去年は雨でさっぱり。ビール麦専門なので、メーカーが品質に何だかんだとクレームをつけて買わないようにする、という状況だった。 次に大豆だが、この地域は早くから大豆を作っていた。本間家も父の代からである。 そこで連作障害が出てきた。上位等級の品質を生産するのは困難だという。2、3年おきに麦とのローテーション栽培をしているが、湿気っているような所を除いた適地は限られているため農地を休ませることは難しいとのことだ。 コメ、大豆、ビール麦とすべてが減収減益続きだ。だから父の代からの借金は「減るどころか、新しい借金が増えてきた」という。 そんな中で、本間さんは平成10年から軟白ネギづくりに取り組んでいる。 自家消費分は別として、本間さんにとって野菜づくりは初めてだ。 経過をたどると「高根沢町では以前から露地栽培のネギを作っていましたが、それでは夏場の出荷が途切れるので施設栽培を併せて年間出荷のできる新規産地の確立を目ざし、軟白ネギを勧めました」とJAしおのや高根沢地区営農生活センター園芸課は語る。 一方、栃木県は大消費地東京に近い地の利を生かした「首都圏農業」の構築に向けて施設園芸を奨励、県と町が補助を出している。 JAの呼びかけに高根沢では本間さんら11人が手を挙げ、早速、喜連川の農家への見学をくり返した。 そこでは数年前からネギのハウス栽培をしていた。その少し前に喜連川や高根沢など5JAが合併した。同じ組合員同士になったのだからと、講習会も開いてくれた。 こうして翌11年春から喜連川と高根沢で作る軟白ネギはJAしおのやの「味ロマン」というブランド名で東京方面へ出荷を始めた。 ネーミングはみんなで考えて選んだ。品種は全国的に有名なJAなすのの「白美人」と同じだ。JAの直売所へも出しているが、生産量はまだまだ少ない。 高根沢の生産者は今年から13人に増える。春菊からの転換や、またサラリーマンからの新規就農者もいて「その集まりは研究熱心で活気があります」(同園芸課)という。東京の大田市場へも勉強に出向いた。 「ハウスのネギは甘みがあり、辛みが少ないなどの優位性があるため有利販売をねらいました」(同)。 生産者の会合では消費者から聞いた「サラダ風にすると子どもにも受ける」などと料理法も話し合う。本間家では、シソ・ドレッシングに人気があるそうだ。 ハウスの大きさは立地によるが、多い人で12棟。本間さんは40mのもの6棟で補助を受け、たい肥で土づくりをしている。は種から2ヵ月後の定植は手作業。その後6ヵ月で収穫する。 1棟の出荷量は約3kg入り計約300ケースだ。不ぞろいのものは徹底的に選び分ける。「無理をして先行投資をした形だから、やはり、いいものを出したいという生産者の意地を貫いていく」と、きっぱり。 ここでも問題は安値だ。中国からの露地ネギ輸入で高級品も下から強く引っ張られ、経費倒れに近い。 「だが、借金は増えるし、補助金はついており、始めた以上もうやめるわけにはいかない。歯を食いしばって続けます」と本間さん。
一般セーフガード(緊急輸入制限)の早期発動が強く求められるところだ。 この間に、本間さんは地元の3人で大豆組合をつくり、JAがリース事業として導入した大型汎用コンバインのオペレーターとしてもがんばった。去年は20数haの刈取りを請け負った。 受託が増えれば、それなりに収入減をカバーできるから、もっと増やしたいところだ。役所のほうも最近「もっと受託を増やせませんか」と大規模経営を対象にアンケート調査にきた。 だが現実は「高齢者も自分でやろうとがんばっているから、なかなか増えません」と答えた。コンバインはJAが、ほ場に運んでくれるが、受託地が分散しているという難点もある。 「一般企業に国の補助金は出ない。だから、どんどんつぶれる。農業だって本来は助成金なしでやっていきたい。しかし大豆にしても助成金による手取りの底上げがなければ、実際問題としてやっていけない」と本間さんの表情は深刻だ。 本間さんは今年のJA全国青年大会で活動実績発表をした。盟友たちと発表内容を検討した結果、次のような趣旨で農政に疑問を投げかけた。 国の政策に従い、規模拡大に努め、転作面積もきちんと達成してきた私たちにとって、今の農業の置かれている立場は余りにも、むごすぎます。生産調整をしても米価は下がり続け、自給率アップのために本作となった大豆にも連作障害が出てきたし、さらには転作面積の限界感など「暗い話ばかりです」と。 また「WTOの問題にからむ大豆政策にしても、専業農家に優先されるべき補助金が、兼業農家に喜ばれる補助金になっていると思います」と訴えた。 さらに、苦しい中にあっても「土地利用型農業の夢は捨て切れない」として、県が推進している首都圏農業に夢と希望を求めて仲間と共に「味ロマン」ブランドの確立に向け、がんばっていくとの決意を示した。 そして、新たな基本法について「長いトンネルの出口のかすかな明かりのようなもの。真っ暗な足もとを照らす明るい政策が早くほしい」との願いも語った。 |
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■変遷のなかで活路見出す
JA十和田市青年部(9支部318人)の大深内支部芋久保分会には今11人(兼業農家6人)の盟友がいる。 同地区は、昭和30年代は乳牛の飼育が盛んだったが、その後、開田が進み米の作つけが増えていった。 しかし、40年代の後半から減反が始まると、にんにく、ネギなどの栽培が試みられ、やがて葉たばこが基幹作物になった。経営安定のためになんとか活路を見出そうとしたのだが、その葉たばこも価格低迷に悩まされることになる−−。 そのころ、集落のなかで次第に栽培が増えてきたのがながいも。今では集落の重要な作物となり、十和田市全体のながいも産業の牽引役にまでなっている。青年部員一戸当たりの平均栽培面積は3ha。青年部OBも含めた地域全体の栽培面積は50haにもなるという。 この地域の一部の生産者がながいも栽培に取り組み始めたのは昭和37年というから歴史は古いが、それが地域の基幹作物として急速に伸びていくのに果たした青年部の役割は大きい。 ■栽培試験が活動の柱 芋久保分会では、昭和52年から生産性と品質向上をめざして独自に栽培試験を行ってきた。仲間で学習会を年に4、5回開き、話し合いのなかから課題を決め、手分けして試験を繰り返してきている。収穫前の中間掘り、そして収穫後などにJAの営農指導員や農業改良普及センター職員などを交えて評価し、翌年のテーマを決めていく。 ながいもの品質は、曲がりがなくまっすぐなこと、太さも十分で、傷や分枝もないことなどで評価される。 そうした良質のながいもをつくるために、試験のテーマは、種いもの適切な植え付け間隔を探る「株間」、薬剤の効果をみる「葉面散布」、「深耕の程度」、「覆土」などになる。どういう栽培法が良質のながいもを育てるのか、その答えを見つけだす作業を共同で行ってきたのだが、答えは1年で得られるものではなく数年かかる課題もある。 ながいもの栽培は、基本的に5月ごろに種いもを植え付け、その後、支柱、ネット張りなどの作業をし、萌芽期を迎えると基肥、さらに追肥と作業が続く。収穫は11月ごろだが、その前に天候や生育状況によって薬剤散布も行う。 こうした作業のなかで、もっとも労力を要するのが収穫であった。そのため、ながいもの栽培が盛んになるつれ、機械も改良され生産性は向上していった。 昭和45年ごろは、最初に登場した機械はモールミニと呼ばれた機械である。その後、続々と新しい機械が登場し、現在では「センター掘り」と呼ばれる機械が普及している。これはながいもが植わっている畝の真ん中を一気に掘り上げる方法だ。平成6年ごろから登場した。 現在の分会長の仁和正教さん(35)は、「モールミニを使っていたころにくらべると、同じ時間をかけても10倍収穫できるようになった」とその省力化を認める。 しかし、この方法は土を深く掘り返すことになるため土壌の質が変わってしまい、そのうち品質にも影響が出てくることが分かった。たしかに省力化はされたが、専用機械導入によるリスクも出てきたのである。また、集落内で栽培面積が急増した時期には、連作障害にも見舞われた。 仁和さんたち青年部の活動は、次々に出てくる新しい課題へのチャレンジでもあるといえる。そうした活動のなかから、種いもの選別基準、覆土の厚さ、株の間隔など、自分たちの力で栽培法を確立してきてきた。 ■知識をみんなで共有する
この品種の栽培には、青年部の現地試験でも知恵を出し合って取り組み、今は、地域全体に普及している。魅力は品質にもあるが、収量にもある。在来種では10aあたり2t程度だが、「ガンクミジカ太正」は3tにもなるからだ。 また、連作障害を避けるために、1年おきにデントコーンやスダックスなどの緑肥作物やネギなどの栽培が有効であることを見出し、集落全体の輪作体系も青年部活動のなかから作り上げてきた。 さらに最近では土壌分析の結果、ミネラルが不足していることも分かり、昨年からは土のミネラル分を補ったながいも栽培も手がけた。販売面でも消費者にもっと十和田のながいもを知ってもらうために首都圏の量販店での店頭販売にも盟友たちは取り組んでいる。 地元では、一昨年から「ながいもオーナー」制度を始め、親子で植え付けと芋掘りなどに参加する人たちが年に数回、芋久保地区に集まるようになっている。伝統の技術を地域の人々にもっと知ってもらおうという積極的な試みにまで活動が広がっている。
■一人ではここまでできなかった 栽培試験は活動の一環というよりも青年部活動そのものである。ただし、仲間意識と同時にライバル意 識もある。収穫後に開く共励会では「みんな、結構、きついことを言うんですよ」という。そう笑いながら話すのは、一昨年の第45回全国青年大会で、先輩たちも含めこれまでの活動をまとめた実績発表を行った市川俊弘さんである。ながいもづくりのリーダー格の一人だ。 「みんな、いいながいもを作ることを課題にしているが、一人だけ喜んでいるのでは、後継者も育たない。地域の基幹作物であるながいもは、地域の人々の暮らしに直結している。みんなが喜べるような取り組みを先輩から引き継いできたということです」と語る。 もちろん青年部OBとの意見交換も頻繁に行いながらの活動だ。むしろ先輩が後輩にこの活動を託していくという関係がここでは成り立っている。青年部活動が知識や体験を共有する地域の核になっているといえるだろう。 十和田地域農業改良普及センターの藤田正男総括主任は「普及センターではできない小回りのきいた試験ができている。新しいテーマへの取り組みも他の地域にくらべて早く、一緒に勉強させてもらっているようなもの」と評価する。 ながいもも中国からの輸入量が増え価格低迷に悩まされている。他の地域の盟友たちと同じようにセーフガードの発動要請など現場から農政にきちんと発言していくことも重要だと考えている。その一方で、今後は後輩たちにより一層品質を向上させる活動を任せていけるような組織づくりも課題だ。 「仲間がいなければここまでできなかった」。仁和さん、市川さんからまったく同じ言葉が返ってきた。 |
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世田谷区の西に隣接する調布市内の農地は総面積の約1割に過ぎない約223haだが、JAマインズの直売所や各農家の庭先直売所は数多い。京王線つつじが丘駅前の空地にも小屋掛けのJA直売所がある。 近くの農家が花や泥付きの野菜を持ち込んで並べ、冬場の品ぞろえは余り多くないが、客足の絶え間がない。人気は上々と見た。客層はやはり主婦が多い。 その向かい側には商店が並び、小さな八百屋さんもあるが、そこよりもJA直売所のほうが活気がある。 直売には物流コストがかからない。またJAの集荷販売にかかる手数料などもいらない。その分だけ安く売れる。生産者と消費者が直結した都市農業は、地方産地よりも元気に見える。
◆生産・販売一体型で元気な都市農業 調布市内の農産物は野菜が圧倒的。枝豆、コマツ菜、キャベツ、ネギ、トマトが構成比でベスト5だ。 しかし農地の減少で野菜作りの経営面積も減少。これに代わって花と花木の面積増加が目立つ。 駅に近く、JAマインズ青壮年部の遠藤好照さんの家がある。前に小さな畑があるが、家はモダンな構えで農家には見えない。 青壮年部は狛江とか西府(府中市)など5つの地域別の青壮年部からなり、遠藤さんは神代青壮年部の部長だった。神代の部員数は133人だが、農業者は50人前後。うち野菜農家は30人ほど。ほかに植木や果樹などの農家がある。 遠藤さんの経営面積は1ha近い。枝豆、トマト、インゲン、ホーレン草、大根など年間40種類以上の多品目生産だ。最近はハーブのルッコラを作り始めた。 神代には2ha規模もあるが、部員の経営面積は3〜4a規模が多い。遠藤さんは大きいほうだ。 「だが売上げは面積じゃない。小面積の施設で花などを作って、かせぐ人もいるし、水耕栽培で年間売上げ3000万円という人もいます」と遠藤さん。 とはいっても、この辺の農業で「1000万円をねらうのは、なかなかね。うちも、そこまでには隔たりがあります」と苦笑する。 地方では耕作面積は広いが、消費者人口は少ない。量販店と産直の視察研修にきた東北のJAが「東京は耕作面積に比べ販売量が大きい」と改めて地方との差を痛感していたそうだ。 東京は、わずかな農地で効果的に販売していると、うらやましがったわけだ。 直売は消費者が過密な地の利を生かしている。生産者は地元消費者のニーズを膚で感じとれる。 「都市農業は生産・販売一体型だから、元気があるように思われるのでしょうね」と遠藤さん。 直売にはファーマーズマーケットに加え、地元のスーパーや百貨店の食品売場などの産直コーナーに直接納品する形もある。 いずれにしても、直売は物流費やJAの経費など中間マージンを削って、その分、値段を安くできる。 それでも生産者の利益は出るし、品質も、その日の収穫物だから新鮮だ。遠藤さんはさらに直売メリットを追求していくという。 「JAは生産・販売企画専任者を育成する」と昨年のJA全国大会決議が打ち出した。東京はずっと以前から生産・販売一体型だ。 最近は農機など生産資材や種苗の品質が非常に進歩し、地方の場合、就農後3年もすれば自立できる。 勢い産地間競争が激化。価格暴落を招いたりも。そこで販路をどうするかが産地の大きな課題となる。
一方、輸入農産物の激増があり、物流の安定や技術進歩がある。中国や韓国などから野菜を積んだ船が福岡に入港。すぐ保冷車で東京へ。一日半余りで着く。 そんな状況を分析しながら遠藤さんは「これからは国内産地の競争だけではなく、アジア全体が競争相手になる」と考える。 「そんな中で都市農業も改めて『販売』を強める必要があります。だから県産とか産地じゃなくて日本全体として、アジアとの競争に打ち勝つ『メイドインジャパン』を作る農業を考えなくちゃいけない」。 輸入品と比べて優位に立つ『メイドインジャパン』とは何か。「その辺をよく検討しないと、とくに物流コストや市場などの中間コストが必要な地方の農業は成り立たなくなるのではないかと、同じ農業者として心配です」と憂える。 自給率の向上を考えると「アジアとの共生」と「アジアとの競争」のジレンマが浮かび上がってくる。 JAマインズは去年、百貨店「伊勢丹」系列の食品・雑貨スーパー「クインズ伊勢丹」に直売コーナーを設けてもらった。 遠藤さんら盟友2人は、去年そこに枝豆を出した。品種は「たんくろう」。300g入りの袋詰めで、1袋300円。遠藤さんの出荷分は1日60袋売れた。 これは神代青壮年部の活動成果を自分の経営に取り入れた新規チャンネルだ。 同青壮年部は「これはおいしい」と消費者に提案できる調布の特産物を選ぼうと検討し、枝豆に白羽の矢を立てた。栽培しやすく、実際に作っている部員が多くて、またビール党だけでなく、子どもや老人を含めて消費者の人気が高いこと、さらには、たん白質と脂肪に富み、とくにコレステロールの低下作用を持つ、などの諸条件からだ。 だが種類が多い。そこで品種の特性と食味を比較検討しようと一昨年春、遠藤部長の施設と畑で3種類のテスト栽培を始めた。 早生の「たんくろう」と「福成」、極早生の「玉すだれ」である。みんなで管理、観察をし、収穫時期をずらしながら、自分たちだけの試食ではなく、一般市民や老人ホーム、幼稚園などで試食をくり返した。 スーパーの市販品も一緒に出して比べたりもして意見を聞いた。結局、調布に合った特定品種は絞り込めなかったが、この活動は昨年のJA全国大会で盟友の新井信隆さんが報告した。 以前から、玉すだれなどを作っていた遠藤さんだが「こうした品種検討はカネもマンパワーもいるから個人では無理です。JAが補助金を出してくれる共同研究だから、できました。勉強になりました」という。 この部活動の結果、昨年は植木や果樹の盟友3人が新規に枝豆づくりを始め、庭先販売をして「売れましたよ」と嬉しそうに遠藤さんに報告したそうだ。 そして遠藤さんと新井さんは袋詰めをクインズ伊勢丹に出荷した。今年も力を入れたいという。 たんくろうにしたのは比較検討で一番コクがあると判断したためだ。袋詰めや値段つけなどの出荷作業にはパートを雇っている。 遠藤さんは、すべてたい肥で野菜を作っている。近くに並ぶケヤキの落葉と、学校給食の食べ残し、市販の有機肥料の三本立てだ。「農薬は使わないと、栽培できない」と明快だ。 大手メーカーの社員だった遠藤さんは、父が高齢化したため6年前に42歳で就農した。定年後の就農では地域との人的なつながりがつけにくいだろうと考えて早い目に退職した。 今、両親と計3人が農業に従事。妻はマンション管理だ。東京の農家はたいていアパートやマンションなど賃貸住宅経営の収入を生活のベースにしている。農業だけでは固定資産税が払えないのが実態だ。 税金といえば、東京では相続1回で農地が3aほど減ってしまう。マンション経営と農業の兼業なら、相続税は3億から7億円。これを払うためには3aほどは手放さざるを得ない。 だから農業者の意思で計画的に経営面積を決められないのが実情だ。 「うちも次の代には減っているかも……」と遠藤さんは浮かない表情だった。 |
農業協同組合新聞(社団法人農協協会)
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