セーフガード本発動の検討はこの10月がヤマ場になる。山下惣一氏は農業の衰退を止めるには本発動をと主張。あわせて、今後の生産者とJAの課題を提起してもらった。
|
|
(やました そういち)昭和11年佐賀県唐津市の農家の長男に生まれる。27年新制中学卒業後、家業の農業に従事、現在に至る。水田1.2ヘクタール、みかん1.0ヘクタール、野菜他。農業の傍ら作家活動を続ける。著書に『ひこばえの歌』(家の光協会)『いま米について』(講談社)『身土不二の探究』(創森社)他多数。現在アジア農民交流センター代表。 |
中国・山東省の野菜産地を見にいった。4月のネギ・生シイタケ・イ草の3品目に対するセーフガードの暫定発動以降、日本の農業関係者がもっとも関心を寄せた場所で「山東省詣で」が相次ぎ、いろんな人の報告を読んだり聞いたりしたが、「百聞は一見に如かず」だから、全国農業会議所の視察団に参加して9月3日から8日までの日程で行ってきた。
北京の日本大使館などで2度のレクチャーを受けたが、次の2点は目からウロコだった。
(1)中国からみると韓国も日本も中国の周辺国である。
(2)日本列島の北端から南端まで中国にすっぽり入ってしまう。ということは日本で生産できる農産物はすべて中国でも生産できることを意味する。
昭和36年制定の「農業基本法」以降、日本の農業はその零細性ゆえに、麦・大豆・飼料穀物などの自給を早々に放棄し、アメリカ等からの輸入に依存することで高度経済成長を成し遂げてきた。せめて、コメと野菜ぐらいは国内で生産しようというのが国民合意で、農政もその方向で政策誘導してきた。ところがいま、そのコメも野菜も背後からケタ違いに安い価格の攻勢にさらされている。まさに「門前のトラ」(アメリカ)「後門のオオカミ」(中国)の挟み撃ちにあっている構図だ。ちなみにお隣の韓国の農業が日本とまったく同じ苦境に追い込まれている。
◆ 政府は不退転の決意示せ
まず政府としてやるべきことは、これ以上の農業の衰退は容認しないという不退転の強い姿勢を内外に示すこと。すなわち、セーフガードの本発動に踏み切ることだ。困難なことはわかる。技術的に難しいこともわかる。セーフガードは一時的な痛み止めの注射であることぐらいみんな承知している。だから、問題は実際の効果ではなくて国としての姿勢なのだ。食糧自給率45%の目標もあり、また、国際テロや狂牛病などリスクのグローバル化が国民生活を脅かしている現状だから、理解は得られるのではないか。
「輸入を止めて、では国内で供給できるのか、将来農業をやる人はいるのか?」すぐにそう反論する人がいるが、「では、日本は農業のない国になってもいいのか?」
セーフガードは輸入禁止ではない。輸入国の権利の行使なのだ。世界NGOの合言葉は「WTOは農業から出ていけ!」であることも念頭におくべきだろう。
やらなかったらどうなるか?これはもう悪夢であろう。3品どころの話ではなくなる。
山東省だけで日本の農地よりも広く、農業従事者は10倍もおり、日本で出来る野菜も果物もすべて生産ができ、しかも労賃はケタ違いに安い。貿易港の青島からは航空便が東京、大阪、福岡、船便が下関、そしてなぜか高知に定期的に通っている。
「山東省農業概況」によれば省全体の耕地面積は680万ヘクタール、総人口8800万人の74.6%が農業人口で、農村労働力は3556万人。だから、1農家当りの平均耕作面積30アール余りで、いわゆる「三反百姓」である。1978年からの「改革開放」で人民公社を解体し、耕作権を分配するとき農家人口1人当り1ムー(1ムーは6.7アール)を基準にしたためで、全国平均でも58アールと日本の半分にしかならない。青島市周辺では1人当り0.5ムーだったという。
したがって、黄河下流域河口の肥沃で広大な大平野だが、風景はさながら市民農園か家庭菜園の拡大版のようだ。寸土も余さず、雑草1本生えていない。いろんな作物がモザイク模様を描いて広がっている。ネギ、ショウガ、ラッカセイ、アスパラガス、タマネギ、ニンニク、キャベツ、ハクサイ、レタス、ピーマン、ゴボウ、ニンジン、何でも有りだ。
今年4月のセーフガード暫定発動で、日本の輸入枠を知った農民たちは畑のネギ苗を引き抜いてほかの作物に転換したという。多く目についたのがショウガ畑だった。そのため長ネギの生産が昨年の6分の1に減り、輸出業者の加工施設では、セーフガードのかかっていないタマネギやアスパラに転換していた。専業農家はほとんどゼロで、農外収入を含めた農家の年収は1万元(15万円)という話だった。これが私たちが見聞した山東省の日本向け野菜生産地のおおまかな姿である。
最大の武器は労賃の安さで、ネギの生産費調査では10キロ当り中国が256円、日本が秋冬どりで2388円で9.3倍だが労働費だけでみると129円対1489円と11.5倍。一方、米と小麦の1時間当りの労働単価は16円対1656円と100倍の差である。(日本はポケット農林水産統計。中国は中国農村統計年鑑2000)。
そして、当分中国の農村での労賃の上昇は望めないという。中国はいまWTO加盟、2008年の北京オリンピックを控えて大変な開発ラッシュでまさに激動の渦中にあるという印象を受ける。私はこの時期に3年続けて北京に行ったが、変化はめざましく、もはや北京も上海も中国ではなく、それぞれ独立した国際都市というべきだ。ところが、表の経済発展の恩恵に浴しているのは12億6千万の人口の中の2億人で、あとは取り残され、その大部分が農村・農民なのである。すでに都市と農村の所得格差は3倍。貧富の格差の拡大に国民の8割が不満をもっているといわれ、農民の所得向上は体制維持のためにも緊急な政治課題となっている。このように中国の国内事情を背景としているだけに、単なる農産物貿易を超えた対応が求められよう。
◆ JAは協調・共闘路線へ
全農が山東省に出張所を作って、しかるべき値段で買い上げ、国内との棲み分けを考えてはどうか?という提案があった。商社にやり放題にやられて日・中両方の農民が苦しむ事態は避けられる。また、民間で調整ができれば政府間の衝突も回避できる。山東省でも日本の農協のような組織が欲しいという声は強かった。将来はそうやって共生を目指すことになるのかもしれないが、現実的には無理だろう。組合員の同意は得られない。
私は農協が産地間競争から協調・共闘へ路線転換するしかないと考える。産地間競争などといっている場合ではない。これまでの選択的拡大、主産地形成農政は破綻したと見るべきだ。破綻がいいすぎなら制度疲労を起こしているとしよう。ネギ、シイタケ、イ草に集中特化した産地は、かっては先進地であった。それがいまもっとも打撃を受け、専作農家ほど危機に直面している。狂牛病しかり、大型稲作農家しかりである。つまり、主産地形成農政には対グローバル戦略はなかった。その延長線上に未来がないことは、先にみた中国との労働費の比較でも明白である。発想を転換するしかない。
◆ 「地給率」こそ高めよう
私はこの14、5年毎年外国の農業・農村を見てまわっており、その数が30カ国を超えた。国際競争という視点でみると日本の農業はあらゆる面で不利である。が、唯一圧倒的に有利な条件があることに気づいた。それは生産者のそばにたくさんの消費者がいるということ、つまり、生産と消費の距離が近い、あるいは同居・混在しているということである。こんな国は世界中にない。この有利な条件を活かす。生産を消費がそれぞれの地域で結びつくシステムが作れるなら、これほど強く持続的な農業はない。が、考えてみればもともと農と食とはそういう密接な関係だったのである。そして、いま、食ほどグローバル化に適さないものはない事実も明らかになりつつある。原点回帰、基本を元に戻すのだ。
だからといって、何もすべてを地元消費にはできないし、その必要もない。いまの体制はあまりにも大消費地、市場中心で地元がガラアキになっている。地元の消費者は本来宝なのに宝の持ち腐れになっており、農業は地域離れをおこしている。軌道修正、販売の多チャンネル化を考えるべきだ。たとえば、全国のJAが協調して、それぞれの管内の量販店に地元の青果物を直接納入して輸入物のつけ入るスキを与えないシステムは作れないものだろうか。鮮度、流通コストで圧倒的に優位に立てる、住民もよろこぶ。
農業が農家だけでなく地域住民全体の財産となるような方向を目指し、JAは地域の消費者をサポーターとして地域社会の核になる。そうやって、まず足元からの「地給率」を高めていくのが基本だ。農業・食糧・環境・暮らし、すべての問題は身の回りに存在するのであって、ここを維持しなくて、何の地球環境、食糧自給率か、といいたい。
◆ アジアの農民に共感を
これが基本だが、それだけでは十分ではない。私は「アジア農民交流センター」なるささやかなNGOの代表をしており、10年以上アジアの農村・農民との交流を続けてきたが、苦しんでいるのは日本の農民ばかりではない。途上国の農民の状況は悲惨といってもよい。
ベトナム、カンボジアの農村での労賃は1日1米ドル(120円)レベルだし、その2倍になったタイの農村ではメコンデルタから流入する安いコメに脅え、ウルグアイラウンド対策で畜産と施設園芸に多大の投資をした韓国ではその後の経済破綻とIMF管理などで農民の負債が大問題となっている。見てきたように中国の1農家当りの年収は日本の50分の1程度だ。
かっては、これらは対岸の火事、他国の出来ごとにすぎなかった。だが、いまや自分たちの問題として考えなければならなくなった。
弱肉強食、勝者のみよければ関知せずという踏まれた足の痛みがわからない国際的な潮流がテロリズム発生の土壌となっているからである。みんなそれぞれに懸命に生きている。