◆協同組合の歴史と女性の参画
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おおたはら・たかあき 昭和14年福島県生まれ。38年北海道大学農学部卒業。43年同大学大学院農学研究科単位取得。同年北星学園大学経済学部、46年北海道大学農学部に勤務。52年同大学助教授、平成2年教授。7年日本協同組合学会会長。10年日本農業経済学会会長、11年より北海道大学大学院農学研究科長、農学部長。農学博士。著書に『明日の農協』(農文協)など。 |
最近の農村は、どこに行っても男性に元気がなく、それと対照的に女性がきわめて元気である。世の中全体に男女共同参画社会やジェンダー問題の議論が行きわたり、女性の時代が到来する予感はたしかにある。しかし、都市部においてはそうした活気さえ不況の暗さに打ち消されがちなのにくらべて、農村では女性の元気さが際立っているように感じているのは私だけだろうか。
一方で元気がないといえば、農協の無気力ぶりも大いに気になる。町の企業も労働組合も、かつて元気だった組織はおしなべて弱ってきており、それも男が威張っていたところほど弱り方も大きいような気がする。だからこそあちこちの組織が再活性化のために女性のパワーを活用しようとして様々な試みをしているのだ。男社会の典型として自他ともに許す農協の場合、女性のパワーはその救い主になり得るだろうか。
JAなどと言うから忘れがちなのだが、もともと農協は協同組合である。そして協同組合の歴史をひも解けば、イギリスのロッチデール組合以来、消費協同組合の大きな流れがあり、そこでは常に女性が主役であった。理事会やマネージメントでは男性も大いに活躍したが、日常活動の主役は女性であったことは間違いない。そしてそれはわが国の生協についても同様であり、ここに「協同組合と女性」というテーマについての1つの視点が存在する。
その点、ヨーロッパの先進国においても、手工業者や農業者などの自営業を組織基盤とする中小企業や農林漁業の協同組合はかなり事情が違っていた。そこでは職人であり農林漁業の主な従事者である男性が、組合の組織と事業の主要な担い手となった。わが国には生協よりもこの種の組合の方が歴史的に早く導入されたし、とくに農村においては遅くまで残った半封建的生産関係も組合の在り方に大きく影響した。そういうことで農協は、産業組合の昔から、骨の髄まで男社会の論理で組織されてきたのである。
それでも戦前の産業組合と戦後の農業協同組合の間には、名称の違いだけではない大きな発展があった。女性の参画という点では農協婦人部が新たに設けられたことが大きい。農協婦人部が、女性部とその名を変え、農協において新たな役割を果たそうとしているとき、婦人部時代の50年におよぶ歴史を振り返っておくことが重要であろう。
◆嫁からパートナーへ
農協婦人部の発展
私は昨年、福岡県のJAにじを訪ねて、その優れた生活文化活動に感服すると共に、帰り際に渡された1冊の本に大きな感銘を受けた。足立房子『繭玉の詩―農協婦人部と共に歩んで』というのがその本である。旧福富農協から吉井町農協、そしてJAにじと農協婦人部一筋に歩んできた足立さんとその仲間の奮闘記は、どのページを開いても感動的だった。
たとえば昭和30年頃の若妻読書会の話がまことに印象的である。若妻同士が神社の社務所や柿畑などに月1回集まって、『家の光』をむさぼるように読み合う読書会が一人も欠けることなく続けられていた。ところが周りの心ない人達からは「田んぼで本を読む不精嫁」とか「姑の悪口大会」などというレッテルを張られ、ついに「読書会をつぶせ」という声が公然と上がるようになったという。
足立さんたちの立派さはここで「つぶされてなるものか」と必死になって周りに理解を求め、誤解を解くために「公開読書会」を開いたことである。好奇心で集まってきた姑さんたちも「すばらしい会でないかい。こりゃ姑も勉強せねば取り残されてしまうばい」とすっかり感心し、若妻読書会は農協婦人部の大読書会に発展したというのである。まさに女性解放と自己発達の場としての若妻会や婦人部の役割が生き生きと描かれている。
戦後、全国の農協婦人部でこれと似たことがたくさん起きていたのだと思われる。そしてその一つひとつが、遅れていたわが国の農村での女性の地位と教養文化の向上に結び付いていった。家の光協会の大金義昭さんは、本紙への連載をまとめた『農とおんなと協同組合』(全国協同出版)の中で、「嫁から妻へ、そしてパートナーへ」と戦後の農村女性の歩みを概括しているが、農協婦人部はまさにこの前半を担ったといえるであろう。
しかし、このような女性の社会的発達を農協という組織体がまともに受け止め、自らの内部に正しく組み込むことができたかと問うならば、残念ながら答えは否定的である。婦人部は青年部と並んで「協力組織」と位置付けられたが、それはあくまでも農協の本体ではなかった。女性のエネルギーは農協の本流からは遠ざけられ、むしろ組織購買、事業推進への動員などゆがんだ経営主義に利用されていった面があったのではないだろうか。
◆女性パワーの多彩な展開に期待
農協の広域合併が進む中で農協女性部の活動が困難に陥り、組織の減退が続いていると言われる。私にはこの現象が広域化に伴う必然的な結果とはどうしても思えない。広域合併が地域の諸問題をみんなで解決する方向にでなく、もっぱら農業離れと合理化に向かっているからであり、女性部を会員の望む活動にでなく、経営主義のお手伝いに動員しようとするから役員のなり手がなく、人が集まらなくなるのである。
私はこのことを北海道のある町の女性活動を通じて逆説的に体験している。私がこの町の「農村婦人大学」の学長に任命されたのはもう10年以上前のことだが、当時40歳代のメンバーたちは私にこう言った。自分たちも農協婦人部の役員が回ってくる年頃になったが、婦人部の活動は押し付けの活動であり、どうせ時間を使うなら自分たちが本当にやりたいことをやれる場が欲しい。だからこの大学は自分たちの自由にやらせて下さいと。
農村婦人大学の日常活動は月1回の学習会であり、そのカリキュラムと講師は会員へのアンケートを中心に自分たちで決めた。また2年に1回の研修旅行も東海、九州からついに台湾、オーストラリアという海外遠征に発展した。「新婚旅行以来、遠出したことがない」という人がほとんどという中で、家族の同意を得て海外にまで出ていくのは容易なことではない。しかし最後は「みんなで渡ればこわくない」という団結の力が勝利した。
学習と先進地視察の効果はてきめんで、メンバーの間にやがて「起業ブーム」が起こった。あちこちに有人、無人の野菜販売所が立ち上がり、さらに豆腐や味噌などの食品加工と販売、ワラ細工など伝統工芸の復活というように地域の注目を集める取り組みを行うメンバーが増えていった。地方自治体の女性起業支援の補助金を受けて、本格的な食品工場を経営する人も現れた。僅かの間に目を見張るような変化が生まれたのである。
さらにメンバーの一人ひとりが集落のリーダーとして、仲間を集めて地域の環境を守り、高齢者福祉の問題に取り組み、子供たちの課外活動に協力するようになっていった。地域が確実に変わってきたのである。そして昨年の農業委員会の改選で、ついにメンバーの中から2名の女性農業委員が誕生した。あれほど敬遠していた農協女性部の役員を積極的に引き受ける人たちも増えてきた。私はただあれよあれよと驚いているだけである。
◆女性の力こそ農協再生に不可欠
以上は一つの事例にすぎない。同じような、あるいはもっと鮮烈な女性パワーの開花が日本列島の各地に展開しているのであろう。だからこそ農村女性の元気さが多くの人に印象づけられているのだ。大金さんが観察したように、妻からパートナーになった女性たちは、今や家の中に止まらず地域社会を作っていくパートナーとなりつつある。農協はそういう女性たちに正当な場を与えることによってのみ再生し得るのではないか。
20世紀型の市場原理至上主義、弱肉強食の効率主義、そうしたものに人類の未来を預けるわけにはいかないということが明確になりつつある今、農村や農協に社会が求めているものは何であろうか。男社会の論理は、こうした過ぎ去りつつある20世紀型の諸規範を遅れて農村に取り込むことを農協の任務と勘違いしてきたのではなかろうか。そこに農協の元気の無さの根源があるように思われる。
今農村に求められているのは、都会人や企業人の傷ついた心身をいやす豊かな環境であり、国民の健康を守る安全、安心な食料の持続的な生産と供給である。そして農業協同組合の任務は、それぞれの立地する農村地域がこのような社会的期待に応えることができるように自己変革することを助け、生協など都市の協同組合との接点を大きく広げていくことである。これこそは女性の歴史的役割であり、現に男性に一歩先んじてきた実績がある。
だから今女性は、農協の真ん中に座らなければならない。女性の地位向上のためというよりは、農協という組織体を大切に思うならば、それが農協再生にとってどうしても必要だからである。これは男性の理解を待つという性質の問題ではない。女性自身がそのことを自覚し、積極的に実現していかなければならない。そしてその条件は今や熟している。