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特集:21世紀の日本農業を拓くJAの挑戦

ルポ 地域を変えたおんなたち
明日の豊かさにチャレンジ

「1人の人間」として接することを大切に


JAしおのや・経済部福祉課長 神山マツ子さん


◆男も女も同じ役割の時代に

利用者に笑顔で話しかける
神山マツ子さん

 平成12年の晩秋、栃木県矢板市立矢板中学校の元教師、村上大吉が地元の病院で息を引き取った。享年86歳。教え子たちからは「おやじ」と呼ばれ、終生慕われていた。
 その年の初め、体調を崩した村上は、JAしおのやの高齢者福祉センター「やすらぎ」のデイサービスや訪問介護を利用するようになっていた。センター長でもある福祉課長の神山マツ子は村上の教え子だ。
 神山は地域の女たちの幸せを願って走り回ってきたが、その原点となったのは恩師、村上の一言だった。
 中学2年のときの生徒会役員選挙。神山は、立会演説会での応援弁士に名乗りを上げた。前代未聞のことだった。男子生徒たちは「女が応援演説したことなんか今までない」と一斉に異議をとなえた。
 その時、じっと生徒たちの議論を聞いていた担任の村上が口を開いた。
 「これからは男も女も同じ役割を果たす時代になる」。
 神山は「その一言で、女も世の中に目を向けて、もっと前に出ていかなければと思った」と振り返る。

◆農協の事業で現状を変えよう

 旧矢板農協職員になったのは昭和37年。
 実家は、祖父の時代から板金業を営んでいた。高校時代はソフトボール部のピッチャーで全国大会にも出場したことがある実力を買われ、実業団に進んだ。
 2年後、好きなことは十分やれたからと実家に戻ったとき、親友から農協が職員を探しているという話が舞い込んだ。周囲は「農業も知らないし、地味な職場で勤まるのか」と気にかけたが、面接した当時専務の坂主政夫は「これからの農協はいきのいいのがいい」と採用した。
 配属されたのは指導課。生活指導員としての仕事が始まった。
 昭和36年の第9回全国農協大会では、生活改善活動の積極化が決議された。営農指導と生活指導は農協の事業の両輪と位置づけられた時期である。
 神山にとっては何をどう進めていいか皆目分からなかったが、とにかく組合員宅を回り女性部の座談会に出て地域の女性たちの実態に触れていった。
 当時、女性部の座談会は、女が外に出られる数少ない機会だった。が、出席するために前の日に無理して仕事を終えてくるからか、疲れた顔が並び、話もあまりしない。
 神山ら事務局の生活設計や健康管理などについての説明にも「そうですね。そうですね」と言うばかり。神山は思わず「みなさんは、うなずき軍団ですか」と言った。
 ただ、疲れた顔が並ぶ理由もあった。とくに春と秋の農繁期になると、体重の減少、貧血などが女たちを苦しめていた。
 農作業を共同で行う“結(ゆい)”も伝統的な習慣だが、手伝いに来てくれた人に出す食事づくりは負担になっていた。「あの家ではこんな食事が出た」の言葉がその家の主婦にとって重荷だった。
 神山は、女が自立をするにはまずこんな状態を変えなければと痛感し、昭和40年代はじめから、食生活、家事の改善運動、健康管理活動を立ち上げた。厚生連病院、保健所等、行政の協力も取り付けて検診を実施、そして農休日を設定するという成果も上げた。

◆農協が女の幸せ考える

 また、「結」の食事を改善しようと、農協で弁当の注文を取りまとめ、供給する事業も立ちあげた。レクリエーションなど文化活動を企画したほか、購買店舗の店頭に立って食材販売を行ったり、農協が開設した結婚式場では司会まで引き受けた。
 すべて「農協の生活事業で女性の現状を変えよう」という思いからだった。
 昭和42年3月、大きな転機が訪れた。夫、悦雄が不慮の事故で亡くなったのである。娘はまだ2歳。悲しみのなかで、子どもを抱えての自立という課題が自らに突きつけられた。
 考えた末、生活指導事業に本腰を入れることを選択。翌年、全中が主催していた生活指導員養成研修に挑戦した。
 20日間の講習で驚いたのは、講師陣と参加者の熱意だった。「農協は単なる勤め人の集まりではない。女の幸せを考えるのが農協だ」と改めて思った。
 終了後は、県内にも同じ思いを抱く有志とも知り合い仕事の幅を広げることにもつながった。
 とくに県中央会の大木テルとの出会いに影響を受けた。大木は自分の目で確かめて、運動や事業を作り出すことを神山に教えた。たとえば、輸入農産物の安全性が問われるようになったころ、神山は大木に誘われて、横浜港まで輸入農産物がどう扱われているのか調べに行った。「自分たちが感じないと地域の女性たちに説得力のある話ができないし、行動も起こせない」という考えからだ。
 そうした農産物の安全性について関心を持ってみると、一方で、地域の女たちは自分が作る農産物をどう考えているのか、ふと気になった。
 ほとんどの女たちはお裾分けするとき「つまらないものですが」と言っていた。しかし、愛情を込めて作った喜びをもっと表現していいし、「つまらないもの」などとはとんでもないことではないかと考えた。
 そこで、自分たちの作ったものを自信を持って、町の人に提供しましょうという運動を思いつく。
 当時の女性部長の印南千恵子は女たちに「一人よりみんなでやったほうがいいでしょう。やってみなければ何も分かりませんよ」と呼びかけた。神山はこの素朴だが端的な言葉に、女たちが動き出すと感じた。

◆一人の人間として扱う

デイサービスでは、幼稚園児たちとの交流など
お年寄りに楽しく過ごしてもらう企画も盛ん

 運動を初めてみると、町の消費者たちから大きな反響があった。今ではこの運動がもとになって直売所活動に結びついている。経済的な自立に向けた一歩となった。
 平成元年、女性部の座談会で神山は高齢者介護を取り上げた。女たちは「家を守っている人間が面倒をみるのは当然」という考え方だった。それならばと、きちんと介護できるようにと厚生連病院での介護研修を企画。74名が組合長名での修了証書を手にした。
 福祉とはどうあるべきか、手探りで始まったが、一方では、行政も福祉に力を入れ始め農協の役割がクローズアップされた。そして、女性部がホームヘルパーの養成研修を受講することになった。神山自身も2級の資格を取得した。
 こうした基盤ができた後、平成6年に市の委託事業として農協は全国初の「デイホーム」を設置した。かつてAコープ店などとして利用していた遊休施設を利用したものだった。神山は生活普及課長をやりながら、この福祉事業も担当した。
 初日には、4人の利用者があった。女性部のヘルパーも応援に駆けつけたが、痴呆も進んだ利用者にみな緊張した。「大変な仕事だ」という認識が広がったが、そのうちに「ショッピングに連れいってあげよう」、「花見をやってはどうか」、そんなアイデアが出るようになり、利用者も増えていった。自分の家族のためにと始めた女たちの福祉への取り組みが地域の大切な仕事を担う役割に変わった。
 平成8年には「デイサービスセンターやすらぎ」として入浴なども手がけ、さらに平成12年の介護保険のスタートで、現在は約40名の女性職員がデイサービス、訪問介護、居宅介護支援などを行っている。
 神山は本来は本所にいるべきだが「現場が見えなくなる」とずっと事業所にいる。そして利用者を「一人の人間としてきちんと接すること」を自らにもスタッフにも厳しく求めてきた。
 そこを恩師の村上が利用することになったのだった。村上がかつて、男も女もこれからは同じ役割を果たすべき、と言った言葉は、時を経て、今度は「一人の人間としてきちんと」という神山に受け継がれた。
 「生まれ育ったところで仕事ができたのは幸せ。でも自分の地域だからこそいい加減なことはできなかった」。
 3月の定年を前に今、神山はこう思っている。
(文中敬称略)


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