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特集:21世紀 食料・農業・農村を拓く女性たち
――JA全国女性協創立50周年記念 |
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俳優になる前の三國さんが一時期、農協に勤めていたとは初耳だった。農協婦人部の資金集めで作った映画「荷車の歌」に思い入れが深いのは、農民の経済的地位向上に情熱をかけた青春があったからだろう。44年前の田すき中に倒れる演技は凄絶だった。今78歳。女性の地位向上のために「日本はもう一度、母系社会に戻るべきだ」と刺激的な発言もあったが、語り口は謙虚で静かで品格があった。(株)全国農村映画協会の顧問で「荷車の歌」の助監督を務めた山岸豊吉さんと語りあってもらった。 ◆兵隊から帰って農協へ
山岸 俳優になる前の青春時代のお話を少しして下さい。 三國 戦後、兵隊から帰って実は鳥取県の農協に勤めていたんですよ。倉繁忠吉さんという県購買連の専務さんと偶然に顔見知りになったのが縁です。 山岸 農協をやめて東京に出てきたのは何歳の時でしたか。 三國 26歳でした。これも偶然に道端で松竹の役員さんに「俳優にならないか」と声をかけられて試験を受け、木下恵介監督の「善魔」でデビューしました。その後、日活映画に出た時に出演料が手形だったので、街の金融業者で割ったところ、日活の社長が社の信用にかかわると思ったのか激怒してクビになりました。そんなこともあって、当時の僕は3年ほど映画界から干されていたんですよ。 ◆女性を悲しませた軍の施設で
山岸 その後が「荷車の歌」主演となりますね。全国農協婦人組織協議会が製作推進を決めたのは昭和33年の大会だったと思います。企画はもっと早かったのですが、それまでは婦人部組織化の初期のころで踏ん切りがつかなかったのです。 三國 僕も農業界とは多少の縁がありましたから気にかけていたところ「東京の九段会館で開く全国の婦人部大会で訴えてくれ」と頼まれ、何かの足しになるんだったらと舞台で10分ほどしゃべりました。 三國 その思いつきから、孫に与えるキャラメル一個で映画が作れます、でき上がれば大事な一つの記録として後々に残って世の中のためになるはずですから、よく話し合って映画づくりに投資する団体運動を起こしてもらえませんか、などと訴えたように思います。その大会で話がまとまりました。僕は、その決断に日本の女性はすごいと感激したことを思い出します。 山岸 結果的にはキャラメルでなく、卵一個を出し合うことになりました。婦人部がゼニを集めるのが難しい当時、三國さんが静かに「キャラメル一個」を訴えたのが殺し文句になったんですよ。それが効いたんだ。三國さんは農協職員をしていたこともあって思いも深かったんでしょう。 三國 いやいや、そんな。しかし今も九段会館の前を通ると当時を思い出します。あの会館は戦争中は偕行社(かいこうしゃ)で軍人会館でしたか。女性を悲しませてきた軍の施設で「荷車の歌」のような内容の映画の出発点になった、というのは、戦後の大きな転換期を感じさせましたね。文化の展望としても一つの方向を見せたと思います。今後も女性が固く手を結んでいけば日本の政治に真っ直ぐの軌道を引いていけるのではないかとも思います。 ◆21世紀の肥やしになる材料がつまった「荷車の歌」 山岸 その面でも女性部の活躍に期待したいと思います。さて「荷車の歌」は全婦協の決定後すぐ撮影に入り、1年がかりで昭和34年春に完成しました。年月もゼニもかけました。当時で5〜6000万円が、今なら8億円くらいかかるスケールの大きい作品です。上映時間も2時間30分という大作です。 三國 今なら興行会社から30分ほどカットしてくれといわれますよ。団体が上映してくれるから2時間半が通りますが。あんな映画ができるというのは戦後日本映画の1つの記念塔ではないかと思います。その後どんどん質が悪くなってきます。 山岸 ほんとです。いい映画が作れなくなってきました。そこで今「荷車」の再上映運動を徹底的にやろうと汗水垂らしています。あれを見れば明治、大正から昭和20年までの民衆や農村の歴史がすぐわかります。 ◆日本映画史上画期的な1000万人観客動員
三國 話は変わりますが、信州でロケをやりましたね。 山岸 原作は広島県三次の山村が舞台ですが、東京から遠くて製作費が合わない。そこで地形的に似ている長野県のロケが多くなりました。杖突峠とかね。 三國 10数年前に飯田市のあたりを歩いていて、お婆ちゃんに「茂市さん」と呼ばれたことがあります。「荷車」の役名が茂市だったので劇中人物と錯覚してるんですよ。結局その家でお茶とお新香をよばれましたよ。あの映画は10年くらい上映していましたか。 山岸 そうです。1000万人以上の人が見たといいます。映画史上まれに見る観客動員です。 三國 今は200万人から300万人といえば大成功ですからね。 山岸 三國さんか茂市か。望月優子さんかセキさんか。観客に錯覚が多かった。茂市には悪役的要素があり、嫁のセキを苦しめるため試写会の直後は「こら!茂市!」って怒ってる婦人部員もいましたよ。とにかく試写会では号泣と拍手で九段会館が割れるんじゃないかと思いました。三國さんは演技を超えた茂市になっていました。一番の苦労は何でしたか。10代後半から65歳くらいまでの役でしたが、劇中では広島に看護婦の娘を探しに行って原爆症にかかり、すごいメークをしていましたね。 三國 肌には悪い化学薬品をひっつけました。出っ歯に見せる工夫とか、中国地方の方言のせりふでも苦労しました。 山岸 田んぼの中に倒れ込む最後のシーンもすごかった。 三國 あれはね。信州の田んぼが凍っちゃっているので伊豆へロケして、温泉の湯を田に入れましたが、湯気が出なくなるまで待つために、やはり凍っちゃうんです。大変なシーンでした。時間もかかりましたね。 ところで、望月さんの台本はすり切れていました。400回くらいは読んだようです。その影響で「荷車」以後は僕も念を入れて読むようになりました。400回以上も読むと暗記しなくても台詞(せりふ)が全部入るんです。記憶じゃなしに生理的にせりふが出てきます。しかし最近はよく読むとアラの出てくる台本が多いので困ります。 山岸 まったくそうですね。 三國 頭の良い演出家は割に直接的な表現をしますけど、薩ちゃん先生(山本薩夫監督)は「荷車」の場合、人間というものに焦点を合わせ、間接的に表現していきました。あれは先生の作品の中でも傑作ですね。 ◆俳優生活の中で最も大きく影響を受けた「荷車の歌」 山岸 薩ちゃん先生は「松川事件」や山本宣治の生涯「武器なき闘い」などリアリスティックな作品が多く「ああ野麦峠」にしてもその部類ですが、「荷車」は一種の抒情性をこめて、深い撮り方をしています。名作です。 三國 僕にも大きな影響を与えてくれました。直接表現をしないという僕の芝居の中で一番大事にしている部分は「荷車」から受けた影響です。人間が持つ2面性を通して問題を追求する作法を学びました。 山岸 三國さんは20年前に親鸞を主人公にした「白い道」という映画を作りましたね。 三國 ええ。それまでに2度親鸞の台本が持ち込まれましたが、教団の意向などを慮んばかった内容だったため返事をせずにいるうちに流れました。それでチェックなしに作ってみたいと思って結局、自分で脚本・監督・制作もみなやりました。切符は100万枚売るつもりでしたが、70数万枚になり、それで借金を全部返しましたから、ペイできたんでしょう。例えばお寺の2男3男とか若い人が見てくれました。 山岸 映画館で興行収入をあげるのは難しい。しかし地方回りの自主上映で少しずつ稼げば結構いけますよ。 三國 映像は人間の心の中のものを蘇らせる大きな役目を持っていると思います。やはり文化産業だから興行会社もアメリカ映画の亜流みたいなものを作り、ゼニかせぐことに追われていてはいけません。それに米国映画をやっても興業収入の7割は持っていかれるのですから日本の会社はもっと考えなくては。 ◆母親は子供のためにも 山岸 三國さんの女性観はいかがですか。 三國 話の続きで、母親としてはもっと考えて、子供に良い作品を見せるという意識を持ってほしいと思います。 山岸 最後に、三國さんは顔のしわが少ないのですが、食生活のほうはどうですか。 三國 友人のお医者さんから1日に30種類ほどの野菜を食べなさいといわれ、たくさん食べています。産地から有機野菜も送ってもらいます。おコメは「白い道」で知り合った新潟の農家の方が送ってくれますので買ったことがないのです。ありがたいことです。やはり日本食ですね。ファストフードのハンバーグなどは食べません。
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