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特集:21世紀 食料・農業・農村を拓く女性たち
――JA全国女性協創立50周年記念 |
インタビュー 「餓死防衛」運動進め 焼け跡から国会へ 党派超えた恋の軌跡も−−園田天光光さん 聞き手:坂田正通氏(農政ジャーナリストの会会員) |
敗戦直後の食糧難の時代にカリスマ的人気で「餓死防衛同盟」という自然発生的な団体の委員長にまつりあげられ、昭和21年に衆院議員に当選した。婦人参政権ができて最初の女性代議士だった。社会党、労農党に加わった後、無所属時代に自民党の園田直・元外相と結婚。話題となった。現在も講演活動などで元気に飛び回っている。その劇的で先駆的な女性の生きざまは、今の転換期にも示唆が大きい。 ◆ 人前で、生まれて初めて焼け跡の惨状を訴える
−−国会議員になるまでのいきさつなどをお聞かせ下さい。 園田 私は戦争中の空襲で2度も死に直面しました。そのために周りの人たちがたくさん死んだ中で、なぜ私だけが“生き残された”という思いに悶々とし、その苦悩が戦後の衆議院議員活動につながりました。 −−お父さんのご職業は? 園田 おコメの相場師でした。さて秘書は男ですが、演説には誰も足を止めません。そこで父は私に向かって『女が人前で大声を出せば精神異常かと思って人が寄って来るだろう。今度はお前がしゃべってご覧』と命じました。男の子がいない父は、娘たちを大学に行かせるなどして男並みに扱っていたのです。 −−当時の園田さんは26歳でしたか。それで、お仕事は? 園田 戦争中は海軍省報道部嘱託でしたが、戦後は無職でした。私は上野駅探訪後、みんなで助け合って生きていこうという気持ちになり、それを、どう人に伝えたらよいのかと考えていた矢先なので、生まれて初めて人前で胸の内を声に出しました。 −−翌日もやりましたか。 園田 ええ。翌日は私の演説中に『この娘の意見に賛成の人は署名して下さい』と名簿を作る人がいて、その後は毎日署名が増え、やがて1万を超えました。それからは名簿をもとに食料調達の運動を始めました。おイモの値段が高騰して失業者には買えないという時代です。 ◆米の配給と住む家の確保 −−いゃあ、まさに手づくりの協同運動ですね。 園田 しかし政府のコメの配給が途絶えた時には蔵前の米蔵を焼き討ちしようという意見も出たんですよ。そこで暴動が起きないようにと相談し、幣原喜重郎首相への陳情を決めました。項目はコメの配給を急ぐことと、住む家のない人に旧軍の兵舎を開放することの2つでした。 −−みんな自発的に物を出し合ったんですね。今の運動は事務局任せになっています。 園田 竿も竹藪を持つ人が提供したんですよ。『餓死防衛同盟』の名称は私の発案でした。そして陳情団は開会中の国会までデモ行進をしました。しかし議員面会所では、紹介議員がいないからと門前払いです。そんなことを知らなかった私たちと衛視が押し問答をしていると、それを耳にした社会党の松本治一郎先生が紹介議員になってくれました。そして幣原総理に面会して窮状を訴え、2つの陳情趣旨が年内に実現しました。 ◆婦人参政権ができて最初の選挙に当選 −−衆院選立候補の直接的なきっかけは何ですか。 園田 ある会社の社長が私の演説を聞き『街頭でが鳴っていないで国会に入ってが鳴りなさい。世の中は国会を中心に動くようになるのだから』と強く勧めたからです。しかし最初は、私の行動が政治的野心によるものと受け取られたのかと思って口惜しくて泣き明かしました。代議士などは、みな政治屋だと教え込まれていたせいもあります。 −−婦人参政権ができて最初の選挙ですか。 園田 そうです。選挙運動では社長から焼けビルを借りて事務所にしました。トラックもマイクもなく、みんなメガホンを手に電車を乗り継いで、1駅ごとに駅前で演説をし、東京2区の中では八王子までいきました。 −−所属政党はどこですか。 園田 最初は餓死防衛同盟として諸派で出ました。しかし翌22年の2回目は社会党から出ました。しかし片山哲連立内閣の時に若気の至りで公共料金値上げに反対し、党大会で『連立だから値上げもやむなしというのなら連立をやめろ』などと食い下がり、除名と決まりました。そこで除名される前に黒田寿男さんら青票の7名と共に脱党して労農党を設立しました。 −−無所属の時に園田直議員と結婚されましたね。当時は白亜の殿堂の恋などと騒がれましたが、与党と野党の考え方の違い、思想を乗り越えての恋の成就というわけですか。 園田 まあね。しかし主人は“日の丸共産党”だなどといわれたユニークな自民党員でした。 −−ご主人は、その後、大臣を5度も務められました。 園田 厚生大臣2回と外務大臣3回、それから副議長でした。 −−とくに日中国交正常化の条約締結では園田外相の決断が大きかったですね。 園田 尖閣列島の先議問題で党内がまとまらず、福田赳夫総理の決断がなかなか出なかったもんですから。最後は事務次官と主人が辞表を懐に入れていると知った総理が腹をくくり、先議しないことになりました。しかし主人が北京へ出向いた後も党内では曲折があったんですよ。 −−園田さんには出産8日目に国会へ出席されたという有名な話もあります。 園田 出産後まだ病院にいる時に出てきてくれといわれました。重要法案の票決が接戦で負ける恐れがあるというのです。結局私が出席して1票の差で成立したと記憶しています。当時と比べて、今は女性議員が増え、国会の中に託児所もできました。様変わりですね。 −−先生のような先達が道を開いたからです。ところで結婚後は立候補されましたか。 園田 したけど落選しました。そこでね。私は2人が議員でいても虻蜂取らずではないか、あなたに2人分の働きができるのなら私は陰に回るが、どうかと聞きますと、主人が『よし、やろう』と答えたので以後35年、私は表には立ちませんでした。 ◆昔は食糧確保で餓死を防ぐ −−話は変わりますが、農村女性は元気です。例えば過疎地では自分たちが守らないと地域が壊滅してしまうと、がんばっています。先生のお話を聞くとそうした女性が、いっそう元気づけられると思います。 園田 私も主人の選挙区だった天草(長崎県)に帰ると、農協婦人部にしばしば顔を出しましたが、みなさん元気ですね。地域のリーダーシップを取っていますよ。しっかりしています。村の活性化でもいろんな活動をしていましたしね。 −−初めて立候補されたころは食料危機の時代でした。今は飽食の時代です。どうですか。 園田 今は『心の餓死防衛同盟』の時代だといっています。昔は食料確保で餓死を防がなくっちゃと思いましたが、今は心の防衛が必要じゃありませんか。 −−心が豊かじゃないということですか。 園田 豊富な食べ物で育った世代には食料の有り難さ、日本人の心の基本にあった何事にも感謝するという気持ちがなくなっています。感謝の念は先祖から受け継いだ民族的な心であり、宝物じゃなかったのか。今は日本人の心が忘れられています。 −−今また上野駅にはホームレスが増えましたが…。 園田 でも、戦争直後は、死体が転がる中で、みんな生き延びようと真剣でした。だから復興した。今はどうでしょう? −−先生は18年前に乳ガンにも打ち勝ちましたね。 園田 医師は患者を生き延びさせようと手術をしますが、やはり本人自身の生きようとする意欲が一番大事だと思います。 −−最近の食生活についてはどう思われますか。 園田 おふくろの味がなくなっていますね。母親が心をこめたものを食べている子供たちは何かを心の中に育てていると思います。手抜きをすれば、それだけ花の咲きようが悪くなります。買ってきた料理でも、器を変えるとか何か母の心を添えて出す気持ちがほしいですね。 −−最後に、お名前はお父さんがつけられたのですか。 園田 父は大きいものが好きなので、まず宇宙を意味する『天』をつけ、次に自然界の大事な分子である『光』、さらに生まれてきたからには世の中の光に育つようにと、もう1つ『光』をくっつけたといっていました。
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