農業協同組合新聞 JACOM
   
コラム ―― ひとこと
米 テロ事件にひとことと

 テレビのニュース、9月11日夜10時(現地時間朝9時)衝撃的な映像が映された。ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機2機が別々に突っ込み炎上している。映画の一画面かと思いきやライブである。やがてビルはへばり込むように垂直に崩壊し白煙を吹き上げて周辺の街を砂煙りで包んでしまった。その後ワシントンのペンタゴンにも一機が突入し炎上する光景が映し出された。ハイジャックによる同時多発テロと米国大統領の声明があった。
 JAグループの海外事業の窓口である全農組貿(株)が世界貿易センターの建設オープン以来、1973年から1987年までの15年間、1号棟ビルにニューヨーク事務所を構えていた。53階から88階へと事業の伸びと共に事務所スペースを拡大していた。世界貿易センターの地主はニューヨーク市港湾局。マンハッタンの再開発プロジェクトにミノル・山崎氏の建築設計デザインが懸賞募集で採択され、日本人の知的な資質に誇りを感ずると同時に、日本経済の成長期に重なっていた。鋼材などビル建設資材のほとんどは日本からの輸出品、ビルの入居は日本企業の現地法人が大半を占めると言われた。真新しい110階410メートルのツインビルの威容は米国の富の象徴と映っていたが、中味は日本が米国経済の下支えする現実の姿があった。
 1986年頃爆弾騒ぎが起きた。受付醸がある時真顔で、「このビルに爆弾が仕掛けられた。すぐ机を離れろとの電話連絡がありました」と駐在員に告げた。まさかと思うがみんなぞろぞろ満員のエレベーターに乗って1階まで下りた。その時は何事もなく、2時間後部屋へ戻って仕事を続けたが、エレベーターの扉にはアラブ系の某中佐の名前が張り出されていた。ビルの管理事務所が避難訓練をするようになったのはそれ以降である。エレベーターを使えない場合を想定して階段を降りる訓練はせいぜい10階ぐらいまでで終了した。とても88階では膝・足ががくがくして無理だ。
 狼少年のようなもので、その後の爆弾騒ぎと避難練習には、「俺はいいよ」と仕事を続ける駐在員が多くなった。全農組貿(株)がJAグループで先陣を切っただけにその後海外進出した農林中金、全共連などの海外事務所も同じく世界貿易センターにあった。ビルの窓からの眺めは素晴らしい。自由の女神の銅像は眼下に見える。日本からのビジネスマンや視察団の数はJAグループだけで年間500人は超えただろう。観光名所としては最高の場所、旅行としては皆さん満足されていた。
 事務所の移転を考え始めたのはその頃である。米国経済の中心はニューヨークだが、本当のビジネス街はミッドタウン。ダウンタウンは証券・金融のみ。
 机に向かって仕事するには不便なビルだった。通勤には地下鉄を降りてからビル風を横切り88階へ到着するまで20分。残業で、夜8時過ぎれば、周辺街はゴーストタウンになる。地下鉄の乗客でネクタイ姿は日本人サラリーマンだけ。更に当時から地下鉄殺人事件が頻発するなどニューヨークの治安は悪かった。
 事務所移転は役員会事項。東京本部の了解がいる。移転理由を説明するのに、「治安が悪い」は意気地なしととられるし、「交通が不便」は他の日本企業が残っているのでわがままととられる。「テロに狙われる」は当時の状況では一笑に付された。それでもともかく、東京本部の理解は得られた。1987年世界貿易センターを脱出出来たのは今から思えば運が良かった。全農組貿(株)が移転を決意すると農林中金、全共連もそれぞれミッドタウンへ引っ越していった。ビルの駐車場の車に爆弾が積まれて爆発し、狼少年が現実になったのは5年後の1993年。全農組貿(株)の持っていた絵画を含む家具類・事務機器全部を引き継いで事務所スペースを拡張した隣部屋の保険会社は、日本企業リストに名前があった。この惨事に被害の最小限であらん事を祈る。(金右衛門)


 

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