共済や保険は地味な目立たない事業である。その重要性には意識されたり話題に上ることも少ない。そこでたまには、古巣の農協共済事業について述べさせていただくこととする。
共栄火災と全共連が完全グループ化として話題になったが、歴史的経過から見れば、ごく当然なことで特筆するに当たらないと思う。もともと同根なのである。戦前、産業組合による保険会社買収に向けて、絶え間ない努力が続けられた。挫折・失敗を乗り越えた成果が昭和17年の共栄火災の設立(大福・大東両損保株の取得)であった。
◆賀川豊彦記念松沢資料館を訪れて
戦後も協同組合保険の創設や、大手生保との業務提携などの運動が進められた。最終的には農協による共済事業の実施が可能となり、今日のような生・損・簡保に伍し得る活動に成長したのである。北海道などの草の根的に生まれた共済制度、農協関係者の献身的な努力が、この成長をもたらしたと言えよう。
と同時に忘れてはならないのが賀川豊彦氏の存在である。彼の思想的および理論的な指導なくしては、今日の農協共済の偉業はありえなかったと思われる。小生たちが発行する同人誌で掛川光人氏による評伝連載の完了を機に、氏とともに世田谷の賀川豊彦資料館を訪れてみた。
キリスト教松沢教会に隣接する形で建てられた立派な建物である。キリスト教関係者を中心とする経済的支援をもとにボランティア的に運営されているようである。展示資料も豊富であるが、さらに閲覧の便を図り、データ検索システムの整備を急いでいるとのこと。もちろんボランティアの人達の支援によってである。
展示資料、資料館運営からみて農協共済の関与度は限りなくゼロに近い。賀川豊彦氏はキリスト教伝道を中心に歩んできた人であり、協同組合運動家として農協とのかかわり合いは、比較的薄いかもしれない。ただ館内には、より関連が深かったとはいえ、日生協作成の内容豊かなビデオが上映されていたりするのをみると、これで良いのかと考えずにはおれない。
社会・経済の基本構造の変化が進行し、事業のあり方が根元の所で問われている。かような時こそ、事業草創時の精神と先人の尽力を振り返る気持ちと余裕が必要なのではなかろうか。
◆農協共済3カ年計画へ一言
農協共済についていろいろ論じるつもりであったが、その導入にスペースを割いてしまった。それだけ賀川豊彦氏というか先人の評価・研究を、大切にせねばならぬと思うからである。残された紙面で、3カ年計画についてふれ、述べ得なかった点は次の機会に譲ることとしたい。
今春、平成16年度から18年度にいたる農協共済3カ年計画が策定された。小生、今日時点での3カ年計画が何故必要なのか、その策定目的は何であるのかに、基本的な疑問を抱いている。かつての高度成長期は、すべての業界・企業で既定路線をただまっしぐらに突っ走り、量的拡大を果たすため、指標計画として3カ年計画の存在価値は高かった。
ところが、今日では環境条件が全く異なってしまったのである。既定路線でなく、事業の長期的な基本方向が模索され、その再構築こそが求められているのである。社会構造も変動が激しく、経済も年毎に減速・低迷・低成長を不安定に繰り返している。このなかでの3カ年計画、策定意義を何処に求めているのか、全く不可解である。
策定された計画書は、中身のない新味を欠く抽象的語句の羅列である。また個々の施策も、単年度で実施可能な事項も、2〜3年に引き延ばされてしまう。そうならざるを得ないのである。それがこの時期の3カ年計画の宿命なのである。時代背景への認識を欠いたマンネリズムそのものの計画づくりこそ見直されねばなるまい。(藤塚捨雄)
(2004.9.22)