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てんま・ただし 昭和3年東京で出生。28年北大農経卒、同年北海道農試、30年農技研、40年帯広畜大、59年北大、平成3年北大定年後名誉教授、13年まで酪総研所長、14年逝去。 |
天間征さんにいよいよお別れを言わねばならなくなりました。
この日がやがて来ることは以前から覚悟していたつもりですが、実際にこの日がきてみるとまことに残念であります。痛恨の極みであります。
奥さまはじめご遺族の方々のお嘆きもいかばかりかとお察し申し上げます。
天間さんにはこのことを伺っておけばよかった、あの点を教えてもらっておけばよかった、ということが沢山あって今さらながら私の中における天間さんの大きさを思い知らされています。
天間さんを初めて知ったのは天間さんの処女作ともいうべき「半農半漁の研究」でありました。農業からの収入だけでは生活ができず漁業からの収入とを合わせてやっと生活できるという貧しさの研究で、当時、大学院の学生だった私に深い感銘を与えてくれました。
その後、私は天間さんのいる農業技術研究所に入りました。このころ天間さんはパンチカードシステムという最新鋭の計算機を使ってつぎつぎと研究成果を発表していました。当時から天間さんは原稿をいきなりペンで書いていました。天性の名文家だったのです。
そして私を弟のようにしていろいろと教えてくれました。時には日暮里駅の近くの谷中の呑み屋へ連れていってもらうこともありました。
天間さんはお酒をこよなく愛する人でありました。ふだんから豪快な人でしたが呑むとますます豪傑になり「君といっしょに天下を取ろう」などと言っていました。その後、私はダメでしたが天間さんは酪農経済の研究分野の第一人者になって立派に「天下を取り」ました。
農技研でしばらくの間ご一緒させて戴きましたが、天間さんはやがてわが国の酪農の中心地である帯広へ行き畜大で酪農経済の研究に専念されました。もう時効になったことですが、そのころ天間さんから私にたいして畜大に来ないかというおさそいがありました。研究費には不自由させないとも言ってくれました。それを聞いた私の家内はすっかり天間さんの信奉者になってしまいました。
天間さんは畜大であたかも魚が水を得たようにして多くの研究成果を発表されました。そのなかで私の中に強く残っているのは「離農の研究」であります。酪農のいわゆる近代化・大規模化の中で取り残された人達の物語であります。これは処女作の「半農半漁の研究」の研究系列につながるものと思います。
私が北海道へ行ったのはちょうどこの研究成果が刊行されベストセラーになっていた頃でした。天間さんは「こんど弟が北大へ来た」といって喜んでおられたそうです。まことに光栄なことでありました。
その後、天間さんも北大へ転任になりました。そして私との共通の師である崎浦誠治先生の自由な、そして厳しい現実感覚という影響を強く受けてきました。天間さんは北大定年後も酪農総合研究所の所長としてわが国の酪農政策に甚大な貢献をされました。私もそのお手伝いをしたつもりですが、全く不十分なままで終わってしまいました。
私が天間さんに教えてもらいたかったことは「半農半漁の研究」から「離農の研究」へと続く研究系列についてであります。この系列と農技研で没頭された経営診断についての計量研究に始まって、畜大で精力的に研究された経営者能力に関する研究へ続く研究系列とのかかわりであります。
この二つの系列は結局交わり合うことなく、しかし平行線のようでもなく互いに捩れあい捻れあいながら、太くそして長い縄のように続いてきたのでしょうか。しかしそれをお聞きすることはとうとう出来なくなってしまいました。
天間さんは兄貴分らしく早々と逝ってしまいました。しかし私もやがて天間さんのそばへいくことになるでしょう。その時にゆっくりと教えて下さい。
それまでしばらくの間、天間さん、さようなら。安らかに休んでいて下さい。 (森島 賢)
(2003.6.12)