劇作家宇野信夫は、寄席に入りびたりました。独身で浅草橋場の住人だった頃、売れない噺家がよく遊びに来、その中に甚語楼(志ん生)もいました。昭和のはじめです。
ある日、甚語楼、柳楽(可楽)、桂文都(りう馬)、百円(円太郎)そのほか3、4人が宇野家で安い酒を呑みながら、自分のかみさんの店(たな)おろしをはじめました。
「うちのシタバ(女房)はもとシャダレ(芸者)だ」と百円がいうと、 「あれがシャダレあがりとは恐れ入った」
「もっとも八王子の裏山から蛇が出るという、花柳界に出ていたんだよ」
「あたしのかみさんは寄席のお茶子だ」
「おれのかかァは師匠の家のおさんどんだ」
そこへ、甚語楼の一言、
「ボクの家内は処女だよ」
で、みんなしんとしてしまいました。
じゃあ、息子の馬生や志ん朝は、どこから産まれたのでしょうか。
そんな甚語楼の枕話です。
いろおとこ
「あの女、まだ二度しかあわねえのに、おれが好きでならねえそうだ」
「それァそうだろう。三、四度あやァ、うんざりする」
女房自慢
若い者が寄りあって、
「隣の女房は器量がいいが、何となくイヤらしいところがある。向こうの嬶ァは、姿も顔だちも不足はないが、痩せすぎている。世の中にいうところなしという女房は、いないものだ」
「しかしあんまりいい女房はもたねえ方がいい。亭主が若死するそうだぜ」
すると一人が
「オイ、湯を1ぺえくれ」
「どうして」
「なんだか気分が悪くなった」
夫婦
婚礼して半年――亭主が語り女房がきく。
婚礼して三年――女房が語り亭主がきく。
十年後――亭主が怒鳴り、女房がわめき、隣の人がきく。
恋わずらい
一人娘がぶらぶら病い、両親が心配して、出入りの者に頼んで娘の心をきくと、恋わずらいで、思う人は女房もあり、子供もある。どうしようもないので、困り切っていると、信州からきたおさんどんが
「よいことがござります」
お前は娘の命の親だと、両親は大よろこび。そのよいこととは、とたずねると、
「忘れてしまうことでごぜえます」
昔々その昔から、誰かに聞いた面白話を、自分流に脚色し、まわりに聞かせるのが好きなおじさん、おばさんが世界中にいました。
文字を使わなかった時代の、そんな話が集められて、本になるようになりました。そこから拾った、先輩たちの楽しい話を、これから紹介していきます。
まずは江戸落語の枕話です。江戸からはじめるのは、明治期、江戸(東京)の言葉が統一語(標準語)になって、日本中の誰にでも分かるようになったからです。
さて、江戸後期、おかしな話を小屋(寄席)で聞かせて、商売にする人たちが出てきました。落語家です。
今回は、自分の女房のまで下ネタにする、柳屋甚語楼(志ん生)の枕話からはじめます。
◆農民画家 種田英幸氏
さし絵は、横山隆一以降、マンガ家を輩出してきた高知県で、半世紀にわたって活躍する、農民画家、種田英幸(たねだ・ひでゆき)氏です。筆者は彼(ヒデチャン)の幼友だちですが、彼の創造的才能に驚かされたのは、戦中(1942年)、彼が3歳の頃です。
地主の家の新築で出た古材で、集落の人たちが我が家を改築してくれました。そのとき、のぞきに来た、幼児の彼が、木くずを使ってオモチャらしきものを作り、私たちを遊びにさそってくれたのです。
余談ですが、そのワラぶきの我が家は、五十年後、テレビドラマに映された日吉丸(秀吉)の生家そっくりでした。小作百姓の家の造りは、五百年たっても、尾張でも土佐でも変わらないものなのですね。
種田英幸氏は、高知県の農業の中心地、桂浜の西側の村、春野町の専業農家です。集落には、我が家を含む、十軒ほどの小作百姓、種田家一族がいたのですが、今、専業でやっているのは英幸家一軒です。
英幸家を除いて、どの家も、飯の食えない、三反未満の小作でしたから、他の家の転業も止むを得ないことでした。例えば、我が家でも、白米だけのご飯が食べられたのは、戦後十年たっても、お盆と元日の、年に二日だけだったのですから。
こういう中で、専業を通した英幸氏が、篤農家であったことで分かるでしょう。今、英幸氏は、全国農協へ副会長を送り出している、町の農協の中心人物の一人で、消防団長もつとめています。
そして、絵本やマンガの出版、民話集などへのさし絵、地元新聞への絵入りルポ記事、全国高校のマンガ甲子園の審査員も六年つとめてきました。そんな種田英幸氏の、生活感あふれたカットもお楽しみください。
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(2004.1.27)