戦友
真下飛泉
ここは御国の何百里
離れて遠き満州の
赤い夕日に照らされて
友は野末の石の下
思えばかなし昨日まで
真先かけて突進し
敵をさんざん懲らしたる
勇士はここに眠れるか
『学校及家庭用言文一致叙事唱歌(三)』明38
お供えは年寄りから
むかし、仲の良い夫婦がいました。ご亭主は、田畑から帰ってくると、毎晩のように、嫁さんを啼かせました。
でも、まだ子どももできないのに、戦争が始まって、村の若者たちに赤紙が来て、みんな戦地へ行ってしまいました。
ご亭主も、ご多分にもれず出征し、間もなく戦死の公報が届き、遺骨が帰ってきました。入っていたのは髪の毛が少しだけでした。
嫁さんは、それを仏壇に供え、毎日、ご飯をあげて、拝んでいました。
ある日、お舅さんが、いつまで何を拝んでいるのかと、そっとのぞいたら、
「あんたの一番好きなものあげる」
と、嫁さんは、すっかり前を広げていました。そのうち、拝み終えて、居間に戻って来たので、お舅さんは
「嫁よ、仏さんにあげるものは粗末にしてはいけない。先に、年寄りがいただくもんだ。おれがいただこう」
と、いただいたそうです。
そして、間もなく子どもが産まれ、戦後60年、彼はその家の跡取りとして、立派に家を守っているそうです。
若者の出征の後で
日露戦争当時、沢山の軍歌が創られたけれど、広く流行したのはこの『戦友』だけで、ここにある戦争否定的な側面が国民の共感を得たのではないかと『日本唱歌集』(岩波書店)に書かれています。
これは全14節の、物語をもった長い歌ですが、最初の2節だけ載せておきます。覚えておられる方も少なくなりました。
さて、出征兵士の家庭で、どんな物語が創られたか、これは土佐の山間部で果樹園をしている人が語ってくれた噺です。
彼によると、これは実話で、姑も健在だったので、当然三角関係になり、もめにもめたそうです。でも、息子は戦死で、家系がとだえるよりはと、産まれた子どもを孫として育てたそうです。
時代が時代ですから、役場も、息子の戦死と日が離れていても、戸籍を作ってくれました。
こんな話は、戦争中、日本中のどこでも、いや世界中のどこにでもあった話でしょうね。戦争がもたらしたお話です。
この夏の天候は大異変でしたね。町の消防団長種田英幸さんの忙しさは大変でした。仁淀川が干上がって田んぼへの用水を60%カットした翌日、大雨で元にもどす。でも、そのたびに英幸さんは田の仕事を休んで、川と町の田んぼを見まわっているのです。