月
でた でた 月が
まるい まるい まんまるい
ぼんのような 月が
かくれた 雲に
くろい くろい まっくろい
すみのような 雲に
また でた 月が
まるい まるい まんまるい
ぼんのような 月が
『尋常小学校唱歌』明43
38度線の手前で
敗戦後の昭和21年9月のことです。残暑の暑い日、田圃の中の細い道をゾロゾロ、ゾロゾロ絶え間なく人がいくの。38度線のちょっと手前です。
朝鮮の白いひげのおじいさんがね、子ども9人ばかり連れて待っていて、呼び止めるんですよ、若い人を。
この子たちは置いていかれた子で、私が預かっているけど、一緒に連れていってくれないか、って頼むんだけども、だめ、だめとみんな断るの。
そうするとひげのおじいさんは、もう少し待っていようねって言うの。みんな、5、6歳から7、8歳の子よ。
日本人でね、学校の先生していたっていう女の人がね、じゃあ私、お預かりしますって連れてきたの。
(多田ちとせ/談)
満州の大草原で
満州。昭和20年の8月19日か20日ごろ。まだ終戦を知らないで、満州の大草原を逃げていた。
途中、民兵4人につかまり、いろいろ尋問があって、最初は許してくれたのに、途中まで行くと、戻れという。
親父さんが満語がしゃべれるから聞いてみると、同志が一人殺されたから、お前たちを許すわけにはいかないということになって、銃をかまえられていた。
せめて子どもだけ助けてくれと、親父がたのむと、まわりに集まってみていた村のおばさんたちが、かまえた鉄砲の前に「不幸を重ねちゃいけない」と立ちはだかってくれた。その間3時間ぐらい。
最後に隊長は、赤い腕章を渡してくれ、道中安全だから、これをつけていけと、大人3人分くれた。それは中国共産党の赤い腕章だった。
(大島満吉/談 『現代民話考・6』)
人間愛に身体をはる
敗戦後、満州や朝鮮に住んでいた人々は、国策の名のもとに、日本から追いやられた人々がほとんどでした。
でも、元々、この地に住んでいた人たちは、自分の耕していた土地を取り上げられた人たちだったのです。
ですから、日本が敗けたと知ると、彼らが大喜びして、日本人に対処したのは当然です。
でも、今号の朝鮮のおじいさんや、中国のおばさんたちは、自分の身体をはって、罪のない子どもたちを守ってくれたのです。うれしい話です。
世界中の民衆が、こうやって、子どもたちを守ってくれました。これは、無差別に人を殺すテロとはまったく反対の人間愛ですね。