歴史 土田吉郎
雨が降りつづく中を
今日も大根を洗う
つぎはぎだらけの仕事着に
くたびれたケラとカサに
斜めにたたきつける雨をよけながら
ただ働く事にのみ喜びがあるのを
赤くほてっている掌に感ずる
「雨が降っても雪が降っても戦争よりはええ」と笑うおばは夫と息子が戦死した年もこうして大根を洗っていた
つぎはぎだらけの着物とくたびれたカサの中で百姓女の歴史が続いていた
(注)「ケラ」は「ミノ」の方言
「農民詩集」より
観音様ありがとう
おら満州に行ってたでぇ。そこで子供は病気になってね。配給のものだけじゃ足らんもんで、満人の家へ行って、着物を売ったり、収容所の元へ行って仕事をさしてもらったり。おら、ほうやって子供を食わした。
仕事をすりゃあねえ、むすびをくれた。へえで、一生懸命で子を負んで仕事をして、むすびをもらって、そりょう分けて食べて、足らずまいは、満人の農家へ行って、きびの粉ねえ、団子のようなものを、着物や何かと交換したりして、ちいとずつ食わしとった。
おら、2つになる子を負んでねえ、収容所の本部ぃ行って頼んだら、便所をかえ出す商売があるって、上清内路の人と二人で、おらあ便所を汲む商売になって、むすびをもらって食べたね。
ほうやっているうちに、伝染病しょっちまって、25日腰ぁ抜けとったねえ。子供は大分まめでようなっとった。
子供が「お母ちゃん、死んじまう」言うて泣いたときに、不思議なこたああるもんだで。おらあ神信心や仏様はあんまり拝まなんのだけど、昔、先代がしょってきた、300年ほどになる観音様。
「これはなぁ、尊いもんだぞ」って姑婆さんが言って聞かせて、仏壇に置いてあったがね。その観音様の姿を見た。
「はあ、のどが乾いたなあ」って。
――内地のおらほうは吊り井戸だった。
ほの井戸でねえ、口ぅ当てて、水飲んだら、なんたらうまい水だと思ったら、観音様がきらきらっと見えた。
「はっ、観音様じゃねえか。うちの。おら、内地へ行っただろうか」と思ったらねえ、コケがのどへ詰まっとたのが、あーっと言ったら出た。それで生(しょう)がついたねえ。
そしたら、子供たち、
「いま、お母ちゃん、死んじまって、息が絶えたばあだったが、生きてきた」
と、わいわい泣いとったがねえ。
内地のうちへもどってみると、この観音様、拝んだこたぁねぇが、この通りのものを見たぞって、子供たちに言うて聞かせたわい。不思議なもんだった。
話者・桜井小菊(手帖社)
戦争をこえるのは母
「サンタさん
おみそとお米を持ってきてください。
優しいお兄さんやお姉さんの分もです。
おかあさんも連れてきてください。」
敗戦の年のクリスマスイブ。新京(現長春)の難民収容所に連れてこられた、3歳の孤児のんちゃんが、年上の子に書いてもらった願いです。片方脱いだ、自分の赤い靴下といっしょに枕元に置いて、サンタを待ちました。
朝、皆が起きてくると、のんちゃんがいません。外で雪に埋まっていました。サンタを探しに出たのです。冷たくなったのんちゃんを部屋に運んだ、お兄さんやお姉さんは、皆で、彼女が口ずさんでいた「きよしこの夜」を歌いました。
(東京新聞、06・8・23)
収容所でもよく働き、子どもたちを助けてきたお母さんが伝染病にかかり、のどが詰まって死にかけたとき、目の前に観音様が現れ、「アーッ」と大きな声を出したら、のどに詰まっていたコケが全部飛び出して、助かりました。
神様は現れるかどうかというより、母たちが、子供のために、どんなに頑張っているか。家族が生きていくのに、お母さんの力が大きいということでしょう。
大根を洗う母も、「雨や雪が降っても、戦争よりはええ」といっています。
さて、画家・種田英幸氏と私の共同作業が今回で終わりだそうで、残念です。
英幸氏は、毎日農作業をしながら、町の消防団長として、土佐湾河口の町を守ってきました。そして、日本漫画集団の四国代表としても頑張ってきました。
「昔々」がなくなっても、本紙では、彼の日常の仕事を生かした絵で活躍してくれるそうです。これからもよろしく。
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