新潟県弥彦村に私の30数年来の老朋友に本多寅英という人物がいる。新潟平野における農業法人化運動の推進のパイオニアである。
永らく農事組合法人麓二区生産組合の代表理事組合長をつとめていたが、いまでは後進の渡辺健さんにゆずり、会長として対外的活動にも励んでいる。
寅英さんに初めて会ったのは、朝日新聞社主催で行っていた朝日農業賞の現地審査の折である。寅英さんが組合長で弥彦村麓二区の八戸の農家が昭和46年に「麓二区水稲生産組合」を設立して活動していたが、それが新潟県の代表として推せんされてきた。
私は、昭和49年に朝日農業賞中央審査委員に任命され、初めてその審査に参画したが、麓二区水稲生産組合は一次審査である書類審査にパスし、二次審査である現地審査に私が当たるよう指名された。
この時期、蒲原平野は激動の中にあった。水田の基盤整備が進み、大区画圃場の出現とともにハサ木の並木も消えていった。刃物の三条、洋食器の燕という地場産業に加え、機械、金属、電気等々の工場立地が進み、それとともに農家の兼業化はますます進んでいた。そういうなかで寅英さんは麓二区集落の有志八戸の農家と完全共同経営を組織した。八戸が持ち寄った水田は13.9ヘクタール、兼業の委託農家27戸の水田が12.9ヘクタール、合計26.8ヘクタールの経営であった。つまり、共同経営を組織し、それを基盤に水田を持てあましてきた兼業農家から水田を借り入れ、大規模経営の方向を目指していた。
こうした実態について、現地調査結果を中央審査会の席上で報告したのであるが、多くの委員からは表彰に値するとの評価をいただいたが、一部の委員から農地法にもとるような違法行為としての事実上の賃貸借、つまり請負耕作やヤミ小作は認めるべきではないとの反論があった。この論点をめぐって激論がかわされた。「現地で桎梏となっている農地法をこそ改めるべきではないか」、「朝日農業賞は政府ではなく民間がやっているものだ。実態に即し、それが地域農業の展望を切り拓くものであるならば表彰すべきだ」、「いや、民間といっても、また悪法といっても法は法だ。それに従うべきだ」。いまから思えば、笑止千万な話だがざっとこういう具合であった。そこで、審査委員のなかでは新任、かつ最年少であった私は涙をのみつつ折れて「高度の技術信託で稲作の新方向を示す」ということで了承してもらい、麓二区水稲生産組合は晴れて1975年の朝日農業賞を受賞することができた。ちなみに、75年7月15日には農振法改正による農用地利用増進事業が創設され、弥彦村もこれを実施し、いわゆる請負耕作はすべて合法化されることになった。こうして二度にわたる現地調査を通じ腹を割った話し合いの中で竹馬の友となったのである。
寅英さんは若いとき、派米青年としてアメリカ・カリフォルニアの農場で辛酸をなめつつ研修をした。「稼ぐ」ことの難しさ、日本の零細経営の克服の課題、規模拡大経営の運営のあるべき方向等々、この時の経験がその後の彼の生き方に具現されていることを、つぶさに教わり、寅英さんの偉さに私は打たれた。稲作経営だけでは経営としては成り立たない。モチ米を作りモチ加工に取り組む。村内4カ所の保育園を杵と臼を持って回り、餅つきの実演もした。転作が大々的に始まったら大豆を大いに作り、ミソ作りに励むことになる。いまでは「弥彦みそ」のブランドで広く知られているミソは、我が家の必需品に定着している。奥さんのマツ子さん達女性陣の腕のすごさである。もちろん、みそだけでなく、おかゆ、赤飯、五目ちまき等々、私の提唱してきた農業の六次産業化を全力で推進している。
本業の稲作の方は、参画農家は八戸から四戸になったが、耕作面積は委託農家が増えて44ヘクタール。コシヒカリとモチ米と大豆を作る。当初は任意組合だったが設立10年目に農事組合法人麓二区生産組合と「水稲」を抜き法人になった。こういう功績がたたえられ、大日本農会総裁から緑白綬有功章を授けられる栄誉に輝いている。
(2004.12.24)