農業協同組合新聞 JACOM
   

コラム 今村奈良臣の「地域農業活性化塾」

先見性ある「ゆるやかな共同体」

 島根県木次町に佐藤忠吉さんという私の尊敬する人物がいる。大正9年生まれであるから今年で84歳だが、視野は広く頭は切れ時代を読む力は抜群でありながら、いつもにこにこと笑顔を絶やしたことがない。
 木次乳業有限会社の社長を長らくつとめてきたが、いまでは退き相談役となっている。この木次乳業は今から42年前の昭和37年に忠吉さんの主導で設立され、牛乳本来の味を生かす低温でのパスチャライズ殺菌法を堅持してきており、日本初のエメンタルチーズや高品質のマリアージュというアイスクリームなども作っており、平成15年度の牛乳の年間処理量は約6000トン、売上高15億円である。
 牛乳を加工・販売するだけではなく、日登牧場と名づけられた里山30haに、わが国では珍しいブラウン・スイスという乳牛を放牧飼育している。山地酪農の熱心な推進者でもある。
 実は私が忠吉さんとお知り合いになったのも山地酪農を通じてである。檜垣徳太郎さん(前全国農業会議所会長)が会長をしている山地畜産研究会が山地畜産の推進方策をとりまとめるというので乞われて私がその策定の委員長になったが、そこで10年程前に出会ったわけである。(その成果は『山地畜産の推進』(社)日本草地畜産協会 1999年2月公刊)。
 忠吉さんの農業のあり方に対する信念を一言で要約すると、「作る人間が健康でなくてはならない、そのうえで本物の食べ物を腹の中まで責任のもてる食べものを消費者に届けよう」というところにある。これは、昭和47年に忠吉さんが提唱者になり設立された木次有機農業研究会のモットーとされているものである。
 なぜ、こういう考え方とか運動を進めるようになったか、その源流を訪ねてみよう。忠吉さんは昭和30年に父から農業経営を引き継ぎ、折からの選択的拡大政策の中で仲間5人と酪農を始める。しかし、昭和36年に田の畔草や野菜の残りをやった乳牛が次々とよろけていく。硝酸塩中毒だと判り、また忠吉さんたちも身体をこわす。そこで昭和40年に町全体からDDT、BHCの全面禁止を役場ともども打ち出す。そして47年の有機農業研究会の発足となった。世の中でいわゆる公害問題や複合汚染が騒がれだす10年前からの先見性に充ちた運動であった。
 忠吉さんは、町内、国内にとどまらず、昭和47年に北欧各国を自ら訪ね、その酪農思想を学び、有機複合経営としての酪農の必要性を認識して帰ってくる。
 こうした一連の思索と実践の中から、農家、農業の自立とともに地域の商工業者との連携、多様な消費者との連帯を踏まえて「ゆるやかな共同体」をめざした多面的な活動とそのための拠点づくりを次々と展開していく。
 まず、町内の中学校1校、小学校5校、5幼稚園の学校給食への牛乳、野菜の供給(野菜は6割供給)。平成元年の日登牧場(30haの山間放牧)。平成3年の(株)風土プラン設立。これは、地元のしょうゆ屋、油屋、お茶屋など一体とした農工商連携の企業。平成4年にはこれも農工商一体の企業としての奥出雲葡萄園というワインの製造販売企業。おなじく平成4年には有機卵油の生産、加工、販売の(有)コロコロ社。そのうえに、平成11年には健康の里、シンボル農園「食の社」の開設。ここには有機ブドウ園や野菜園、古民家を改装した宿泊施設、都市・農村交流施設やあかぬけしたレストランなどが集まり、忠吉さんをしたって訪ねてくる大都市の消費者などでいつもにぎわっている。要するに私が提唱してきた農業の6次農業化の運動をさらに発展させ、地域の商工業者の分野まで巻き込み「ゆるやかな共同体」をめざし、その中核として木次乳業や風土プランなどの中核企業が企業的精神、つまり自立をめざして活動とともに、身障者や高齢者なども広く活かし地域全体に活力をもたらそうとしているのである。こういう活動に対し、朝日新聞社の「明日への環境賞」の第1回農業特別賞を受賞したことを特記しておきたい。

(2004.11.22)



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