田んぼの中の記念碑
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ロケ地に立つ看板 |
昨日、久しぶりに山形県のロケ現場、赤山地区の棚田を訪れた。私の故郷である八王子の有志によるロケ地ツアーに随行したのであるが、偶然にも前回のこの紙面でご披露した「安達家の人々」の中の祖父の訃報に接した。映画「おにぎり」の文字通りラストカットで独り鍬を振るう老人の姿が印象的だっただけに、全く知己のないツアーの仲間たちも、仏前に手を合わせご冥福を祈ってくれた。
また撮影に使用した田んぼには「映画おにぎりロケ地記念」という看板が建てられ、訪れる人たちの目をひいていた。誰の命令でもなく村の有志たち、それもロケに協力してくれた人たちの手作りだという。
今、日本中でテレビの大河ドラマあたりが前例になり、町おこしを意図した記念品や土産物販売が盛んだが、最近では期待がはずれ担当者の責任問題にまで発展している例もあるというが、決して観光地や名所でもないこの山形の奥地の田んぼに建てられた手作りの看板には、「この田んぼで、この俺たちが、あの映画を作ったんだ!」という強烈なアピールがある。2年間にわたるこの田んぼを中心にした撮影で、共に苦労し、共に燃えた仲間たちの心に残したものが、こういう形で残されたことを私は何よりも誇りに持ちたいと思う。
◆巨大扇風機で「台風」づくり
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嵐の中のシーン |
思い出しても大変だったのは、この田んぼの台風シーンの撮影で、もちろん本物の台風がこちらのスケジュールに合わせて都合よく来るはずもなく、また実際の台風が来てもそれでは逆に撮影にならない。そこでせめて風の強い日に期待しようと準備したのであるが、私たちが選んだこの田んぼ、谷間という地形のせいか全然風が吹かない。そこで考えたのが、かつて黒澤明監督がやったというヘリコプターによる風起こしで、田んぼの上にヘリを飛来させ、そのホバーリングの風を利用するものだが、この山間でのヘリの飛行は危険で許可がでないということで断念、代わりにヘリに近い風力を出せる扇風機をということで、宮城県にある農薬散布用の巨大な扇風機を持ち込んだ。
風はこれで解決だが、肝心の雨である。通常この位の規模になると消防車の協力ということになるのだが、問題は水源、村の消防隊の方々の協力で付近の小川をその都度塞き止めながら水を蓄え、放水に適する水圧になるまで待ちながら降らすという面倒な段取りになった。ここまでは撮影の特殊撮影班の役割であるが、この班だけではなく、その他あらゆる部署に村の人たちが素人ながら助手として働いてくれた。
映画の撮影に協力するといえば、とりあえず物珍しく、俳優さんたちとは親しく口を交わし友達にもなれる。当初こそ多少そんな華やいだ気分があったかも知れないが、それも多分最初の間だけ、やがて何度も何度も同じことばかりくり返す現場を見ていると、単なるロケの見物人だったら飽きて帰ってしまう。ところが協力隊のメンバーは飽きても途中で帰るわけにはいかない。黙々と作業の手助けをしているうちに、次第に作業の中身が判ってくる。監督を始めロケ隊全員が、今何を希望しているのか、また今何を悩んでいるのかが見えてくる。そうなると仕事の興味は俳優さんへの興味どころではなく、俄然作品の本質に関わってくる。自分たちの手で「良い映画を作ろう」という実感が私たちとまったく同じ次元になり、そしてその高まりは、時に出稼ぎ的な神経が抜けない一部の映画人を凌駕する。それだけ純粋なのだろう。
◆スタッフも村人も一丸となった撮影
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熱演する役者の皆さん |
人工とはいえ本物と同じ条件の台風、扇風機の轟音と叩きつける雨、飛びかう怒声で走り回るスタッフ。風に煽られ高い脚立から田んぼの泥水に転げ落ちる女性スタッフ。高圧線に触れそうなホースの水を必死に食い止めようと叫ぶスタッフ。誰がスタッフで誰が村の協力者なのかまったく見分けがつかない。スタッフも村の人たちも一丸となって懸命に働いた。かくてあの力強い台風シーンが出来上がったのである。
真夜中に撮影が終わり、ようやく田んぼに静けさが戻った頃、泥水を転がり回った特殊撮影のスタッフたちは、用意した旅館にも寄らず一路トラックで東京に帰って行った。
「へーえ、あの人たち風呂にも入らんで、いいんですかね?」とびっくりした顔で村の人が尋ねると、「いや、明日の朝から東京で仕事があるらしい」とスタッフが答えた。
その時協力してくれた村の人たちが建ててくれたのが、田んぼの中の看板である。
(2004.6.30) |