“花見百姓”
球春到来。野球ファンには、たまらないシーズンがやってきた。ことに今年は一足先に、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が開かれ、日本は、それこそたなぼたの準決勝進出で韓国を破り、決勝でキューバに勝った。このWBCを観ていて、アメリカ人の気質が判ったような気がする。あの‘世紀の大誤審’だ。この審判は米国―日本戦、メキシコ戦で、自国寄りの誤審を堂々とやってのけた。
誤審は、人間の目だからゼロとは言わないが、誰の目からみても誤審とわかる判定は問題。しかも一度、ならず二度までも、そのうえ自国に有利な判定ときては、WBCもこれでぶち壊しと、人一倍公平さを重んじる日本人なら思うだろう。これは狩猟民族と農耕民族の違い?どうも、彼らには「卑怯なことはするな」という、武士道精神の欠片もないようだ。
今、米国産牛肉輸入再禁をめぐって、アメリカは「特異な事例」とごり押ししようとしているが、これも自国の利益のためなら、他国のことはお構いなしとする姿勢で、問題の審判となんら変わらない。大活躍したイチローが、日本がメジャーの野球に伝えられることは、と問われて「ダッグアウトはきれいにした方がいい」と答えたという(3月21日、朝日)。みごとに、日本とアメリカの野球の違い、いや、日米両国の人間の気質の違いを突いた言葉だ。
さて、球春とともに、桜前線が北上中。“花見百姓”は、毎日新聞のコラム「窓」(越村佳代子氏)で拝見した言葉。引用させてもらうと、小説「阿弥陀堂だより」の一場面とか。幼くして母と死別した主人公は、祖母と2人で奥深い山の中の小さな田畑を耕しながら暮らしている。つらい仕事をこなさなければ、生活を維持できず、祖母は「理屈っこきの男ほど始末の悪いものはねえ」と黙々と働くことを身上にしていた。孫が上京することになったとき、祖母は「おめはなあ、花見百姓になりそうで、おらあ心配してただが…」と嘆く。その意味を聞かれて「桜の花ばっかり見てて田起しもしねえような男はろくなもんじゃねえっつことだ」と答えたという。
この祖母の言葉は、人間、とくに日本人の生き方の原点を云い得ているような気がして耳が痛い。でも、「たかが野球、されど野球…」。「おめえこそ、花見百姓だっつ」、とおばあさんに叱られそう。
(だだっ児)