硫黄島からの手紙
昨年は敗戦の年の「えと」が60年でひとめぐり(還暦)し、今年は新しいひとめぐりを迎えた。だが、この節目にこの国は今までの60年を歴史の彼方に追いやり、ご破算にしてしまおうとするかのように見える。憲法改正の動き、教育基本法の改正、そして戦後農政の歴史的転換といわれる「農業改革」然り。
今年、一番売れた新書『国家の品格』の著者・藤原正彦さんは、日本という国は、他国にみられない特殊な伝統や美風といった「国柄」をもち、それが故にハンティントンが『文明の衝突』の中で、キリスト教文明やイスラム文明などとともに、世界八大文明の一つとして日本文明を挙げていると言う。つづけて、その独特の日本文明、「国柄」が改革の名のもとに壊されていると警鐘を鳴らしている(文芸春秋1月号)。また、この現象を「国家の堕落」と言っているが、私に言わせれば、この60年で「国柄」のもとである日本人の「人柄」がすっかり変わり、「国民の堕落」ではないかと思ったりする。
かっての日本人像として、藤原氏が著書で紹介している、戦前駐日フランス大使を務めた詩人・クローデルの「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でただ一つ、どうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」や、近藤道生氏の新書「国を誤りたもうことなかれ」に、大森貝塚を発見したアメリカ人モースの友人ピゲローの「田舎の宿の女中でもアメリカの上流婦人より優雅にふるまい、人力車夫でも第一級のジェントルマンの風格を持つ」がでてくるが、今どきこんな日本人を見つけるのは容易でない。
先日、今話題の映画「硫黄島からの手紙」を見た。時宜を得た秀逸の反戦映画だ。とくに、渡辺謙の演じる栗林中将の生き様、家族に対する愛情、優しさ、労わり、心ばえは、すっかり忘れていた日本人の典型を見、胸をうつ。どうして、昔に比べて、「人柄」の劣る日本人になったのだろう。その責任の一端は案外戦争世代を親にもつ団塊世代にあるのかもしれない。仕事、仕事、会社、会社…と家庭を顧みず、気がついてみると、子供とも妻とも距離ができ、社会生活のできない妙な日本人になってしまった(自分のことですが)。
これは意外に大きな「2007年問題」?。「会社」、これを逆に読めば「社会」。遅まきながら「会社人間」から、真っ当な「社会人」にならないと、日本は「美しい国」どころか、それこそ「堕落した国」になってしまう。よいお年を。(だだっ児)