'日常茶飯'
「うざい」「いけ面」「メル友」、あるいは、「おしん」「ウルトラマン」などの昭和語も取り込んで、『広辞苑』が10年ぶりに改訂されるそうだ。言葉といえば、現代農業11月増刊号を読んでいて(宮澤昌子さんの「次代送りの喜び」)、すっかり忘れていた言葉に出会った。「日常茶飯」だ。古びた広辞苑を開くと、「日常の食事。転じて、ありふれた平凡な物事のたとえ」とある。
「日常茶飯」、昔の人は、なんと素晴らしい漢字を当てたことだろうと、ひとり感心。つづけて、宮澤さんの書き出しを借りれば、「日本人にとって、文字通り当たり前のものであったはずの茶や米をつくっている農家が今、悲鳴も出ない状況に追い込まれている」とある。「まぁ一服」と、お茶は急須に淹れて飲むものが、今や緑茶のペットボトルが席巻。ご飯も朝炊く習慣がなくなったせいか、「朝飯前」なる言葉も死語?、消費量は年間一人60キロと激減。
ふり返ると、いつの間にか、お茶もご飯も日常茶飯でなくなった。それが今年、出来秋を迎え、農家を直撃。1俵(60キロ)7000円の概算金騒動である。最終的には、緊急対策として、備蓄米の政府買入れや飼料用処理で44万トンを市場隔離し、内金も実質1万円まで引上げることが決まったが、米価格の低落や消費の減退という、構造的な問題はなんら解決していない。
こんな情勢を先取りしてか、冒頭の雑誌に、民俗研究家・結城登美雄さんの「鳴子の米プロジェクト」の取り組みが載っている。「鳴子の米は60kgで、2万4000円。60kgの米が1000杯のご飯になる。1杯の値段は24円。高いですか」と結城さんは問う。さらに、結城さんは、この米を完売するのが目的ではなく、広げたいのは米の大切さ、田んぼの大事さを思う人の輪。深めたいのは食を支える農業・農村への理解だという。まったく至極同感。
前段の宮澤昌子さんは、その寄稿文で「日常茶飯の品を選ぶことは、生きる社会を選ぶこと」と、ひたすら「安さ」「便利さ」を追い求めてきた社会、生活者に警鐘を鳴らしている。たしかに、'日常茶飯'がもし、死語になるようでは、また、「鳴子の米プロジェクト」のような取り組みの輪が広がっていかなければ、経済学者の金子勝氏がいう「あと10年もすれば、日本の農山村は地滑りを起すように崩壊していくことだろう」(岩波書店『食から立て直す旅』)が、現実になるやもしれないと、真剣に思うのです。 (駄々っ子)