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星野 精助 氏 この人と語る 21世紀のアグリビジネス

農協とともに農村経済を支えて
−「大きな企業」より「立派な企業」をめざす
   
星野物産株式会社

会長 星野 精助
(ほしの・せいすけ)大正4年6月群馬県生まれ。前橋市立前橋商業学校卒業。昭和23年星野物産(株)取締役社長、平成3年同社取締役会長に就任。昭和49年群馬倉庫(株)社長、昭和50年上電通運(株)社長、昭和52年(株)群馬銀行監査役、昭和58年群馬テレビ(株)取締役、昭和63年わたらせ渓谷鉄道(株)監査役、平成4年上電通運(株)取締役会長に就任。
インタビュアー:坂田正通 (農政ジャーナリストの会会員)
   群馬県大間々町に本社のある星野物産(株)は「上州手振りうどん」で有名だが、ほかにも飼料・肥料製造、物流業など幅広く事業を展開しており農協組織との関係も深い。その事業展開の原点には「日本農業の中核になる農協に協力する」という発想があったという。今年、85歳になる星野精助会長にこれまでの歩みを振り返ってもらうとともに、21世紀への提言を聞いた。今回は、かつて系統肥料の群馬県担当を務め全農監事、全中常務も歴任した田久保一政氏にも同席してもらった。


産業組合のお手伝いを、と考えて

星野 精助 氏
星野 精助 氏
星野 精助 氏

 ■星野物産の前身は、明治35年に創業した福岡屋星野商店で米麦、肥料薪炭の販売業を営んでおられたのですね。その後の歩みをお聞かせいただけますか。

 創業者は、親父(新吉氏)ですから、私は先代が発想したものを整理したり、管理して会社らしい恰好にしてきたわけです。いわゆる2代目ですよ。
 初めは昭和12年に株式会社にした星野物産が事業の中心で、戦後しばらくすると、肥料や飼料の統制が解除されるということで、親父としてはまた昔のように商売ができると思っていた。ところが、そこへ金子与重郎先生(代議士)が来られて、戦後の農村は農業協同組合を中心として動くんだから、農協に協力できるような考え方で仕事をやるほうがいいですよ、と言われたんです。

 これがひとつの大きな分かれ目でした。戦前の商人は、産業組合設立が盛んになっていくと反産運動のほうに入っていったのです。しかし、金子先生は「商人はただもっと買ってくれとか、安く売ってくれというだけ。産業組合は生活指導をするんだ、商人にはそれができない」という考え方を聞かされていたものですから、先生の言うことがすぐに理解できた。
 それで肥料の統制が解除された翌年の昭和26年に県が作成した施肥基準をもとに農家が使いやすいように配合して販売してはどうかと考えて群馬組合配合肥料という会社を発足させたわけです。

 ■金子与重郎さんは店によく遊びに来ていたそうですね。

 そうですね。そのころは現在の日産化学のセールスマンとして河野謙三さん(後に参議院議長)も来ていた。それで二人で社会主義か、資本主義かと議論するわけです。金子さんの家は地主でしたが、社会主義的な考え方で農村には産業組合が必要だということを強調していました。
 親父は根っからの商人で私も商業学校に行ったわけですが、卒業する昭和4年ごろから大変な農村不況になって、繭が半値になる、米が半値になるという時代でした。うちも肥料などを売っていましたから、非常に農村不況のことが頭に残っていました。

 それから昭和8年には安岡正篤先生が中心となった篤農協会というものができて、私は第1回の講習会に参加したんですが、商人は私だけであとはみな農家の青年たちでした。そうやって農村問題に関心を持っていたのも、当時は若いですから、商人はお世辞や嘘を言うとか、あるいは儲ければいいという感覚があることについて嫌な感じがしていたからです。
 そこに金子さんの産業組合の話を聞かされ、戦後は民主化によって従来のような大資本による支配はなくなり、農村は農協主体の経済になるといわれた。それならそのお手伝いをしたほうがいいんじゃないかと私も考えたわけです。

最初は6割の農協が株主になって

星野 精助 氏 ■先代の後を引き継がれたのは昭和23年、33歳のときですね。農協を通じて肥料や飼料を売るというのは当時は斬新だったと思いますが。

 群馬組合肥料の設立の翌年には飼料も扱うようになり、さらに28年には化成肥料も製造する関東化成工業(株)となりました。
 当初は、私の出資が大部分で、あとは金子さんを支えた若い人たちが株主だったんですが、34年には本格的に肥料工場を作ることになったものだから、やはり農協に関東化成の株主になってもらって、経済連が主体で動けるようにしようということで、最初は6割ぐらいの農協に株主になってもらいましたね。それで昭和35年に新工場ができさらに翌年には飼料工場もつくった。

 アメリカでは当時、配合飼料会社が大規模な企業になっていることを当時の河野一郎農林大臣と会食したときに聞きまして、それで日本もいずれそうなるだろうと、3交代で月産1万トン程度の生産量の工場として稼働させました。しかし、それでも不足したものですから、経済連の直営工場として群馬くみあい飼料ができたんですね。たしかに飼料は毎年どんどん伸びる時代でした。
 その後、平成4年には、両社を合併し経営権を経済連に委譲しました。(現関東くみあい化成工業)星野物産グループからははずれてしまいますが、農家や農協に役立つのならと踏み切って現在に至っています。

集落座談会で農業経営のあり方を話し回る

田久保一政氏
元全農監事・全中常務
田久保一政氏

 田久保 当時の状況を補足しますと、群馬県の系統肥料のシェアは全国では下から数えて2番めぐらいだったと思いますが、これをいかに上げるかが最大の目標でした。そこで関東化成の化成肥料をかついで各農協を回ることになったんです。農協とはいかなるものか、農業経営をどうしなければならないかを説いて回りましたね。関東化成のジープを借りて県内を走り回ったことを覚えています。
 その運動は、経済連や全農(当時は全購連)の職員がただ農協に対して説明するだけではなく、農協の人たちと一緒になって集落座談会に出席して繰り返し繰り返し話したんですね。それが功を奏したのか、その後シェアを上げてきました。

 農業というものは、協同組合とタイアップすることによってこそ力が出てくるという認識が星野さんにあって、それと不即不離の形で経済連があった。そしてわれわれ全農も入ってという本当に一丸となって運動をすすめたことが成果につながったと思いますね。
 もちろん話だけではだめで、そうした問題を解決するのにふさわしい購買品の供給がなければ農協の価値が現実に農家への答えとならないわけですが、その考え方にかなった肥料だったということが非常に大きかったと思っています。

利益は手段、儲けるのではなく儲かる企業を

星野 精助 氏 ■「なくてはならぬ企業、大きさよりも立派な企業」と言われていますが、そうした考え方にはお母さんの影響もあったそうですね。

 お袋は、儲けるのと儲かるのでは違うよ、といっていました。儲けようというのではなく、儲かるようにしなければだめだよと。儲かるというのは相手が授けてくれることで、儲けるというのは相手から取る、ということだとお袋なりの解釈を教えてくれましたね。そうすると、たとえば、お得意さまにいいものを作るとか、欲しいものをつくるとか、なるべくコストを下げるということになってくるわけですね。
 ですから、利益は手段だということですね。目的ではなくて。これは協和発酵の創業者、加藤辨三郎さんから教えられたことです。

 加藤さんとは仏教の勉強を通じて知り合いましたが、親鸞が語った人間のあり方としての「生かされている」という言葉を色紙に書いて贈ってくれました。毎日、それを見ているんですが、今は、「生き残るため」という言葉をよく使いますね。ただ、それは自分が喰わんがためじゃないかと、そうではなくて「生かされる」にはどうすればいいか考えるべきでじゃないかと思うんですね。

農協という言葉を恥ずかしがったら本末転倒

群馬県大間々町の敷地内にある工場
群馬県大間々町の敷地内にある工場

 ■21世紀に向けて農協を中心としたアグリビジネスに関係する若い世代への提言をお聞かせください。

 ずっと仏教や歴史を勉強していますが、最近、玉木懿夫という人が1905年に「英国衰亡論」を書いているのを知りました。それは最盛期の英国の憂うべき現象を記して日本の若者に警告を発したものですが、そこには「田舎を嫌い、都会を好む」、「農業の衰退、自給率の低下」、「商業競争に熱中」、「国よりパンを愛す。公共精神の低下」などと書かれています。これは今の日本が非常に似ていると思いますね。
 農協組織でも、農協という言葉を使いたがらなくなっているんじゃないでしょうか。土台には農家があってそれが主人公ですがばらばらだと弱いから、農協をつくり県連、中央機関があるという組織ですね。これを2段階制にするのはいいとは思いますが、その組織の名前に、農、あるいは農協という言葉を使うのがなんとなく恥ずかしいとか、野暮ったいとかという感じがあるなら、一体、主人公はどうなってしまうんだろうと思います。

 ただ合理化すればいいんだという考えで、特徴を失ってしまえば組織にしろ、国にしろかえって弱くなってしまうのではないか。合理的経営が主題となっていくと、逆に足下が揺らいでくるんじゃないでしょうか。目的と手段を取り違えて自己保存だけを強めていくと逆に衰退が強まっていくんじゃないかと思いますね。
 国家百年の計と言われますが、2080年には我が国の人口は6500万人になると予測されております。米をはじめ農産物、畜産物の消費は半減し、農村購買も半減します。政治家、政府はもちろん、農協指導者夫々真剣に対策を論議されたい。


インタビューを終えて
 星野会長に最初にお会いしたのは「肥料海外ミッション」に関東化成椛纒\として参加され、私は事務局として同行した時のことでした。星野さんは厳父から事業を相続し、2代目徳川秀忠ですと云っていた頃でした。それから激動の30年が過ぎている。星野さんは「偉い人より、立派な人になれ」と社員には訓示する、時には「大きな会社より、なくてはならぬ会社」を目指せになる。堅実経営はバブルの頃、駄目経営のように云われたが、不況の時代は立派な経営者として誉められる、方針はぶれていないつもりと世間の評価を批判。星野物産(株)3代目社長は長男陽司氏が引継ぎ徳川家光もできた。もはやビジネスの現役ではありませんと謙遜されるが、地域での肩書きが沢山あり群馬県の“星野コンツェルン”の象徴として、会長室に毎日出勤する「現役」でもある。今回のインタビューでも昔肥料の群馬県担当で旧友の田久保一政さん(元全中常務)が一緒だったこともあるだろうが東武線赤城駅に一人で出迎え、会社は近いので車より歩きましょうと85才の会長はかくしゃくとして先導された。

 結婚生活60周年を孫などファミリー一族に囲まれ、温泉で昨年お祝いしたという。今まで浮いた噂はなかったのに、お話をうかがっていると星野さんの一番恐いのは奥様のようにも映る。 (坂田)



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