ほぼ全員が加入していたJA共済が再生の下支えに
◆避難所も集落単位で再編
震災後の道路の寸断で孤立しヘリコプターで全住民が搬送される映像が全国に流れた旧山古志村。本紙は震災から1年後の05年11月に現地を訪ねてレポートしたが、当時はダンプカーがひっきりなしに行き交い、被害を受けた住宅の取り壊しを行う重機の音が谷に響き渡っていた。
被災者にはさまざまな支援が行われたが旧山古志村の住民はとるものもとりあえず避難したため、通帳も印鑑も自宅に置いたままという人も多かった。しかし、JA越後ながおかの山古志支店職員は組合員の顔を覚えており、希望者には通帳や印鑑がなくても貯金払い戻しの便宜を図った。JAはその後、仮設住宅暮らしをはじめた組合員に対し、定期的に訪問して生活相談に応じるなどの活動に力を入れてきた。
実は当時、避難所は8か所に分散したという。今、改めて注目されるのがそのときの行政の対応だ。
長岡市山古志支所の青木勝支所長は「これから村の再建に向けてもっとも重要になるのは集落機能だと考えた」と話す。その考えのもとに、避難所生活が始まって1週間後に、村の14の集落単位に避難所を再編した。
そして、仮設住宅が建設され入居が始まっていくが、「集落ごとに一体化できるように配置、住民どうしののつながり、まとまりを重視して入居を進めた」という。
◆山の暮らしの再生とは?
当時、住民の先頭に立ち復興の陣頭指揮をとった村長で現在は衆議院議員の長島忠美氏は「全員で村に帰ろう」と呼びかけ、そのメッセージに全国から支援が集まったといえるだろう。
「ただし」と青木支所長、「都会では被災地に住宅を再建して再び住むことができれば復興かもしれないが、山村での暮らしは集落機能が前提。村に帰ろうといっても、山古志ならどこでもいいというものではなく、住民の思いは暮らしてきた集落に帰ろう、ということだったんです」と都市の復興との違いを語る。
実際に、あのヘリコプターでの村民全員避難も、集落の人々自身がどこにだれがどんな状態で生活をしているか、きちんと情報を共有していたからこそまとまった行動がとれた結果だという。
村の再建とは、そうした人と人とのつき合い、助け合い、情報の共有といった集落機能がなければならないということが復興の基本的な考え方となった。
青木支所長は「復興に向けては住宅再建という言い方は極力せず、大事なのは集落機能だと。そのなかに住宅再建も含まれるという考え方に立ちました」と話す。
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山古志地区の伝統行事の闘牛や錦鯉生産も戻った
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◆JA共済が大きく貢献
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在来工法で再建された公営住宅。
設計には都市との交流もめざす工夫がある
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復興に向けてはあくまで自立再建を基本としたが、行政としては「全員が帰る」という目標達成のために、低コストのモデル住宅を提案した。写真は山古志地区に再建されたもの。木造の在来工法建築で山村の風景に溶け込むような住宅だ。
一方、自力支援が基本とはいえ、高齢でそれがかなわない人たちもいる。どうしても自力再建できないという人のために公営住宅も建設することにしたが、これも木造の在来工法で建設。なかには4連棟の長屋形式にしたものもある。公営住宅は全部で35世帯分が建設された。
しかも大きな特徴は「集落の再建」を基本にしているため、村内の1か所に集中して建設するのではなく「集落のなかに必要な戸数をつくった」という点である。住民が生活を再開してもコミュニティから離れ孤立しかねない状態になってしまうのであれば暮らしを続けることはできない。まさに住宅再建は集落機能再生を重視して行われたのである。
そして、こうした全員で村に帰ろう、集落を再生しようという目標にとって「実はJA共済の共済金が非常に大きく貢献した」のだと青木支所長は評価する。
JAの支店はそれまでも村にとっての唯一の金融機関であり、生活と農業生産に必要なガソリンを始めとした物資の供給などに重要な役割を果たしており、JA共済にもほとんどの住民が加入していた。今回、地震も含めた自然災害も保障するという「建物更生共済」の役割が発揮されたことはもちろんだが、「ほぼ全員が加入していた」というJAの事業特性が「再建に非常に功を奏した」と指摘する。
JA越後ながおかでは、震災発生後、管内で1万を超える被害棟数に迅速に対応するため、職員を総動員し損害調査に取りかかった。また、査定と支払いを急ぐため、100名を超えるJA共済連の損害査定員が全国から派遣されるなど、全国規模の組織力で支援した。被害の大きかった太田・山古志地区には合わせて92億円の共済金支払いが行われている。
「JAは地域にとって非常に大きな位置を占めている。とくに中山間地域ではその役割に期待したい」と青木支所長は話す。山古志地区の復興ではJA共済は「集落の保障」という役割も発揮したということだろう。
◆顔ぶれそろい湧く力
昨年、8月14日、JA越後ながおかの山古志支店が再開した。まだ、仮設住宅で暮らす人も多かったが、お盆にはお墓参りに住民が戻るので何とかその時期に再開したいと準備してきたという。
同JA企画課の五十嵐課長は「JAも戻ってきたということを見せたかった」と話す。金融・共済の全業務、生産資材を中心とした購買店舗業務、ポータブル給油機やLPガスなどの供給を再開した。とくにガソリンの供給拠点が戻ったことが非常に喜ばれたという。
ただし、支店の職員は市街地の仮設暮らしをする組合員にも対応しなければならないため支店と30キロも離れた仮設住宅に足を運ぶことも多かったという。
その後、住宅再建が進み戻ってくる人が増えると「やはり知っている顔が多くなると心強いようです。次第に元気が出てくることが分かりますね」と五十嵐課長は話す。支店の職員は山古志地区の住民で、JAの職務を離れても集落で何らかの役割を役割を果たしているという。その意味でも地域と一体となったJAの取り組みが行われている。
一方、こうした集落機能を重視した復興への取り組みから長岡市には(財)山の暮らし再生機構が立ち上がった。
「実は復興への取り組みのなかで、助け合いや情報の共有、あるいは山村で農業をするという生き方の伝承といった集落の機能とは、日本人の暮らしの基本ではないかということが明らかになったと思う。中山間地域から日本人の暮らしの根源的なあり方を発信していくことがこの再生機構の目的なんです」と青木支所長は語る。
実は公営住宅は伝統的な工法をとりながらも室内の明るさや雪害対策などに工夫をし、都会の人が別荘としても利用できるような設計がなされている。将来、地元住民で利用する人がいなくなっても都会との交流の場として活用することも視野に入れたものだ。
震災前に600世帯約2100人だった住民のうち約500世帯1500人が山古志の各集落で生活を再開した。仮設住宅は年末にはなくなるが、この3年間、孤独死はゼロだった。
「中山間地域のわれわれの暮らしにとって集落を基本とした暮らしこそが価値があることを復興を通じて発信、実証してきたい」と青木支所長は話している。