フイリッピン、バギオの高原野菜を現地に見る
◆長い植民地の時代
「スペインがフイリッピンにカトリックを残したとすれば、アメリカは学校制度と英語教育を与えた」と云われている。
マゼランの世界周航の途上での「発見」によるスペインの植民地の時代が1529年から1896年まで続いた。
次いで、アメリカが1899年スペインに2000万ドル支払ってフイリッピン諸島を買い取って以降、1941年12月から1945年2月までの日本の占領時代を除きアメリカの植民地であった。
1946年7月フイリッピンは独立をしたが、「ポスト・アメリカ植民地」が終るのには1992年のアメリカ軍基地がすべて撤去されるまで待たねばならなかった。
◆バギオの野菜
バギオは日本の軽井沢とも云われる避暑地で、首都マニラから北へ車で約6時間、標高1300mでマニラが30度を超える時も20〜24度と快適な大統領の別荘もある人口30万人の都市である。
バギオから更に北へ80km山道を登り、標高1800〜2200mのブギアスが高原野菜の産地である。
デコボコの道を80km行くのに4時間かかり、ものすごい埃を巻き上げて走る。
急な斜面の段々畑は下の方は1枚が10a位はあるが上に行くほど小さくなり、中腹の斜面や山頂の方では1枚が1〜3坪で何株か植えると一杯の猫の額である。
遠くから見れば段々畑の山村風景であるが、木を切って山を削り畑になりそうな所を標高2200m位まで耕して小さな農家が点在している風景は、日本のような景観、自然を守る風物詩としての段々畑と違って生活の貧しさがにじみ出ている。
20年くらい前までは下の方のやや広い場所を水田としたり甘藷を作っていたが、バギオやマニラ向けの野菜産地として脚光を浴びるようになり、現金が入る魅力でまさに「耕して天に至る」風景となっている。
水は、湧き水を小さなコンクリートで溜め細いビニールの管で引っ張っており、数kmの距離を何本もの管が走り家庭用と畑に使っている。落差を利用してスクリンプラーを回している。水の権利が畑の広さを決めているようである。
野菜の種類は2月下旬でキャベツ、にんじん、ジャガイモ、インゲン、エンドウなどを中心にセロリー、白菜、たまねぎ、と豊富であった。
手間をかけた栽培なので品質は良く、連作障害を避けるため輪作をしているが家畜が少ないので肥料は化学肥料、農薬もかなり使っているようであった。
◆典型的な商人資本の世界
この地区では種子、肥料、農薬はほとんど業者が扱っており金のない人は販売代金で精算する。販売も農家は道端に積んで業者が集め現金で支払う。農家は車がないので畑で売るより他に方法がない。
業者はトラックやジプニーと呼ぶ乗合バスの屋根に積んだり、ともかくあらゆる手段を使ってバギオの卸売市場に運び、小売商か消費地に運ぶ仲卸人に販売をする。買った仲卸人はキャベツや白菜は外葉を1〜2枚取り新聞で1つずつ巻いて20kg入りの大きなビニールの袋に入れ、これをトラックに山盛りでマニラの卸売市場に運ぶ。外葉をつけたままにするのは傷み防止でダンボールのない流通の知恵である。
このように産地から小売店まで何人もの商人が入っているが、小売も農家も零細、輸送のインフラがない状態ではそれなりの合理性を持った体系であろう。
農家もほとんど携帯電話を持っており情報は取れるし、狭い地域での取引であるから誤魔化したり、インチキをすれば次から相手にされなくなるであろうから、傍から見るほど不合理ではない秩序で動いていると見られる。
◆スーパーマーケットが強くなる前に
幸いなことにマニラでもバギオでもまだスーパーマーケットが少なく、あっても日用品、専門店、食堂が中心で生鮮食品は既存の小売市場や道端の小売店が圧倒的に強い。
従って、バギオの野菜も現在は業者中心の流通でも販売が出来ているが、スーパーマーケットの進出や貿易の自由化が進むとお手上げの状態となるのが目に見えるようである。
バギオ野菜の銘柄で産地が成り立っているが、今のうちに少なくとも共同で選果・出荷をする体制をつくっておかないと折角の段々畑が山に戻ることになりそうだ。
今でもこの地域の農家は農業収入3万6000ペソ(日本円で約9万円)、農外収入が6万7000ペソ(約17万円)で地元には他に産業らしいものがないので道路工事か出稼ぎに頼る生活である。
農協はあるが信用事業中心で力がない。何故、農民が積極的に参加をして業者に対抗した販売、購買、信用の事業を活発にしないのか、それぞれの国の歴史と政府の農業への姿勢が現れている。 (原田 康)(2003.3.6)