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農協時論

我が国農業に適合した経営・所得安定化対策を

茨城大学農学部教授 中川 光弘
 

中川光弘氏
(なかがわ みつひろ)
昭和29年香川県生まれ。東京大学農学部卒業。農林水産省農業総合研究所アメリカオセアニア研究室長などを経て、現在に至る。著書に『国境措置と日本農業』、『国際食料需給と食料安全保障』、『21世紀の問題群−持続可能な発展の途−」(いずれも共著)など。

◆UR農業合意と世界農産物市場

 1993年12月のウルグアイ・ラウンド合意とその翌年4月のマラケッシュでの調印をうけて1995年1月からWTOが発足し、世界の農産物貿易はこのWTO体制の下で展開することになった。WTO農業協定においては、(1)原則としてのすべての国境措置の関税化とその税率の引き下げ、(2)輸出補助金の削減、(3)貿易歪曲化効果を持つ国内支持の削減、(4)国際基準に基づく動植物検疫制度の確立が明記された。先進国については1995年以降の6年間について各国譲許表に従って貿易の自由化と国内保護の削減が図られることになった。
 これまでのラウンドと異なってウルグアイ・ラウンドでは、農業分野での思い切った貿易自由化の合意が成立したが、この背景には1986年にウルグアイ・ラウンドが始まった当時の世界的な農産物過剰があった。この頃先進各国はこの農産物過剰処理と市況低迷に伴う所得補償のため農業財政支出が急増し、またアメリカ・EU間の輸出補助金競争の激化に伴って世界農産物貿易も著しく歪曲化されていた。国際的協調による各国の保護削減の実施が、世界農産物貿易の正常化にとって不可欠であるとの共通認識が醸成されていた。
 このような時代的情勢を反映してWTO農業協定は成立したが、その後世界農産物貿易はどのように展開したであろうか。ウルグアイ・ラウンドが終局に向かっていた頃、先進各国のエコノミストたちによってウルグアイ・ラウンド農業合意の世界農産物貿易への影響について予測が試みられた。これら多くの研究では、ウルグアイ・ラウンド農業合意によって、各国の国境保護、国内保護が削減され農産物の輸入需要は増大し、また輸出補助金の削減によって輸出価格の人為的引き下げが是正され、その結果として農産物貿易は拡大し、農産物国際価格が上昇することが予測されていた。
 1995年からのWTO体制への移行以来、世界の農産物貿易は、例えば穀物貿易について見れば、若干の貿易量の増加はあったもののそれ程拡大していない。1995年に2億4900万トンであった世界の穀物貿易量は、2000年には2億5900万トンに若干増加したが、問題は国際価格の動向で、アメリカのシカゴの小麦価格は、年平均で1995年にはブッシェル当たり4.6ドルであったのが2000年には2.5ドルに急落した。実に46%の価格下落である。もちろん、エコノミストたちの予測においても、ウルグアイ・ラウンド農業合意の国際価格への影響は比較的軽微で、その効果はせいぜい国際価格の2%程度の引き上げ効果しか持たないであろうとの予測が多かったが、それでもWTO体制への移行後にこれ程の国際価格の下落を予想する者は少なかった。

◆WTO農業協定の意義

 このようにWTO農業協定の世界農産物市場への実質的影響は軽微であったと思われ、実際の世界農産物市場では、大方の予測とは逆に大幅な国際価格の下落が起こった。この背景には、各国が譲許表で示した保護の削減計画は、各国ともかなりの余裕を残したものであり、基準年が1986〜88年間に設定されたこともあり、実質的な削減の程度はそれ程大きなものではなかったことがある。また、国際価格の動向に関しては、WTO農業協定の影響よりも、その後の国際需給の変化、例えば人口大国の中国やインドでの農産物需要の増加テンポが鈍化したことや途上国の外貨不足により輸入需要が停滞したことなどの影響の方が、はるかに大きかった。
 では世界農業の展開にとって、WTO農業協定の意義は何であったのだろうか。その最大の意義は、世界の農業政策の展開方向が、このWTO農業協定で明確に位置付けられたことだと思われる。このWTO農業協定の成立によって、これからの農業政策は農産物市場や農業貿易に出来るだけ歪曲効果を持たない、いわゆるデカップリングな政策に組み換えられなければならないことが明確に示されたことである。このことはWTO農業協定では、具体的には各国の国内支持政策が、削減対象とする「黄」の政策と、削減対象外とする「緑」の政策と、削減が暫定的に猶予される「青」の政策に区分されたことに示されている。今後各国が新しい農業政策を策定する場合、否応でも「緑」の政策にできるだけ適合するものを想定せざるを得なくなったのである。

◆新しい経営・所得安定化対策

 WTO農業協定の付属書2「国内助成」には、削減対象外の「緑」の政策として、(1)研究、検査、基盤整備などの一般政策、(2)食料安全保障のための公的備蓄、(3)国内食料支援、(4)生産に関連しない収入支持、(5)収入保険及び収入保証、(6)自然災害補償、(7)廃業に係わる構造調整援助、(8)資源利用中止に係わる構造調整援助、(9)投資援助による構造調整援助、(10)環境に係わる支払い、(11)地域援助に係わる支払いなどが明記されている。既に我が国でも普及事業や農村基盤整備、穀物備蓄、学校給食、農業災害補償、農業年金制度、農業金融、転作助成金など、この「緑」の政策に区分される種々の政策が施行されている。しかし、(4)、(5)、(8)に対応する政策は、我が国ではまだその取り組みが本格化しておらず、特に(5)の収入保険及び収入保証に係わる政策は、セーフティネットに係わる「緑」の政策であるので、我が国においても今後農業政策の1つの柱として発展させうる可能性が残されている。
 この収入保険及び収入保証に係わる具体的政策として、経営・所得安定化対策が注目を集めている。経営・所得安定化対策は、カナダでは純所得安定口座(NISA)が、アメリカでは収入保険パイロットプログラム(AGR)などが実施されている。1998年から我が国で導入された稲作経営安定対策も作物別プログラムではあるが1つの経営・所得安定化対策といえる。
 先述したように、アメリカ、カナダでは穀物価格の下落が著しく、セーフティネットのあり方が問題となっており、「緑」の政策に区分される経営・所得安定化対策への関心が高まっている。アメリカでは、1996年農業法で不足払い制度が廃止され、セーフティネット機能が大幅に後退したが、次の新しい農業法ではグリーンペイメントや収入保険プログラムなどの導入によって再びセーフティネット機能が拡充される可能性が高い。
 WTO農業協定に基づく我が国の助成合計量(AMS)の推計によると、AMS全体の7割以上は米の価格支持関連の費用が占めている。価格支持政策の最大の目的は、農家の所得補償にあるので、これの何割かを経営・所得安定化対策に振り替えることによって、AMSをかなり削減することが可能である。もちろん農家の所得補償を経営・所得安定化対策だけで行うことは不可能なので、WTO農業協定に則ったかたちで種々の対策を再編し、市場歪曲化の少ない政府体系で我が国農業を守り発展させて行くことが重要である。この意味でも我が国農業に適合した新しい経営・所得安定化対策が策定されることを期待したい。


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