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畠山敬子さん(はたけやま・けいこ)1926年生まれ。77歳。 |
「20歳のとき、何ひとつ仕事のことなど知らないで嫁にきてしまったんですけど、仕事に教えられるというのは本当ですね。一所懸命にやっている内に、いつのまにか何でもできるようになってました」
敬子さんがいう「仕事」とは事業や商売のことではない。「家事」のことである。声音が落ち着いている。見るからにやさしく、物腰もやわらかだ。
実家は昔、阿仁(あに)川が流れる地元の造り酒屋。6人きょうだいの二女として、不自由のない娘時代だった。20歳で嫁にきたとき、家には2人の女性がいた。明治生まれだから、100年前の女たちだ。「おかあさん」はナヨさん。まだ40代で若かったが、脳溢血の後遺症で左半身が不自由だった。「おばあさん」はトヨさん。「とてもしっかりしたひと」だったという。
毎朝、おかあさんの髪を結ってやることで1日が始まった。おばあさんは丸刈り頭であったので、バリカンで刈ってあげた。そして敬子さん自身は、自分の髪は当時もいまも、自分でタチバサミで切る。
夜になると、体が不自由なおかあさんのために、寝床づくりをした。冬はこたつ掛けをしての寝床づくりであった。洗い物を済ませると、真夜中であったり、うっすらと薄明の時刻であったりもした。
ご苦労したでしょう、と水を向けると、真顔で首を横に振った。
「この2人には本当によくしてもらって、教えられることばかりでしたね。いまでもおかあさんとおばあさんのことは忘れないですね。ありがたいと思ってますよ」
当時は台所のことを「水屋」と称したが、井戸水を汲んでいた時代だった。生魚の場合、大きなアンコウをまるごと1匹、出刃包丁でさばいた。野鳥の場合、脂ぎったカモをまるごと1羽、熱湯にひたして羽根や羽毛をむしり、さばいた。いつのまにか、そういうことができるようになっていた。
水屋のことばかりではない。嫁にくるまでは鍬ひとつ握ったこともなかったが、畑づくりはおばあさんに手ほどきを受けた。
「鍬の持ち方に始まって、畝の立て方、種の播き方、それから鶏糞と稲藁を使って土づくりですね。農薬や化学肥料は1度も使ったことないですね」
どんな野菜でもつくった。ノビル、ボンナ、ウドなど山菜も早くから家裏の畑で栽培していたという。昔は庭に梅の木が3本あったので、ふんだんに梅漬けもつくった。梅干しではない。シソと一緒に漬け込む梅漬けである。あとは干し柿も手づくりした。
敬子さんの話を聞いて思うのは、市場を相手にする畑づくりではなく、あくまでも自家用としての畑づくりの味わいだ。カネにまつわらない自由や喜びそのものを収穫するといった健全さ、謙虚さが感じられた。
敬子さんの「家事」経験のなかで、群を抜いていると思うのは、大根の漬け物だ。かつて毎年漬けていた大根は、1000本である。
まず秋口に最初のタクアン漬けが250本。これは翌年の大根がつくられる端境期の秋口まで食べる。
次いで生干しのヌカ漬けが250本。冬越しから春すぎまで食べる分である。
それから生大根の1本漬けも250本。これは塩漬けで、春の雪消えの頃までの食用だ。
ナタ漬けは100本。これは冬の秋田に独自のもので、コウジ漬けである。
また、敬子さんに独自なもので、1カ月ほど干した大根をコウジとナンバン(トウガラシ)で漬けるものがある。これも昔は100本を漬けた。
あとはミソ漬けとカス漬けもそれぞれ50本ずつ漬け込んだ。
こうして大根の数は、ざっと1000本となる。これを井戸水で1本また1本と、素手でタワシがけして洗うのだ。秋から冬にかけて、若かった敬子さんは大根を手塩にかけて息つく暇もない毎日であったようだ。
「いまとなれば夢のようですね」
20歳で嫁にきてからはまるで漬け物みたいな人生であったと、敬子さんは自嘲気味に笑う。だが、いまふうに理念や理屈をスローガンのように騒々しく言いつのるのでなく、おばあさんやおかあさんという100年前の女たちの生活実感を、ごく自然のなりわいとして、寡黙に引き受けてきた、ふところの深さ、おくゆかしさというものが感じられる。
敬子さんを慕う人たちは、老いも若きもだ。漬け物、手料理など、敬子さんの昔がたりに、メモをとる若い女性もいる。「男子厨房に入らず」というが、敬子さんの影響で、漬け物づくりに熱中するようになったという男性もいる。
敬子さんはたぶん、この世には、ちっぽけな自分の経験など及びもつかぬ偉大な経験が、ふるさとの山川草木の景観のように、無言のまま堆積して横たわっているのだということを、あらかじめ知っていた最後の世代の女性なのかもしれない。77歳のおだやかな表情が、観音菩薩の美しい顔立ちに見えた。 (2003.4.24)