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シリーズ みちのくを生きる女性たち |
博さんの朝は早い。まだ誰もいない現場で、気温をみて、天気の具合もみながら、水温を計り、朝一番に大きな釜で豆を蒸すのが博さんの仕事だ。 「本当にいい納豆ができたと、心から納得する出来具合というのは、1年に1度か2度くらいのもの。お客さんたちには申しわけないけれども、何十年やっていても、むずかしいものなの」 正直だ。ウソがつけないから、率直なものいいになる。だが、いわば普段着のままの人生であったからこそ、飾りっ気のない人たちもまた集まってくる。 青森納豆の製造元「かくた武田」は、その名から、社名と商品名が重なり合うように「武田納豆」とも呼ばれ、親しまれてきた老舗だ。1904(明治37)年の創業というから、日露戦争の年だ。来年で百年になる。 青森県上北郡野辺地町の生家は、味噌、醤油の醸造元だった。いまでも醤油をつくっている。こちらは創業明治10年というから、「かくた武田」よりもさらに古い。野辺地は南部藩時代より大豆の集積地であり、積み出し港として栄えたところだった。 8人きょうだいの長女。24歳で嫁いできた。もう45年になる。 「醤油屋や酒屋は女が仕事に口出しできないが、納豆屋は違う。女も仕事ができる」 母親の反対を押し切って、そう言ってくれたのが祖母だった。八戸の寺育ちで、新聞はもとより「婦人公論」も読む女性だった。 大正時代、自然発酵に頼っていた納豆づくりに、初めて近代製法で取り組んだのが初代武田左吉。北海道帝国大学の半沢洵教授、盛岡高等農林学校(現岩手大学)の村松舜祐博士らの協力で、昭和の初めに納豆菌の純粋培養に成功した全国初の納豆業者だ。発酵室を設計したり、「ワラ苞」から経木や折箱への容器開発にも取り組んだ先駆けだった。 培養納豆菌による製造法を普及するため、全国をとびまわったのが、2代目信太郎。その留守を守っていたのが、姑のタキ。6男6女の母親として、子育てと家業を支えていた。何があっても動じない堂々たる風格の女性だった。 博さんの夫、3代目忠一は42歳で死去。それからは男の子3人をかかえて、姑のタキと手を携えつつ無我夢中の人生だった。盆と正月のほかは休みなし。日曜日も祭日も当然ない。納豆づくりは2代目信太郎直伝だ。 「私にはとても親切で、丁寧に納豆づくりを教えてくれましたね。妻や息子よりも、嫁のほうが教えやすかったのかもしれませんね」 豆は100パーセント国産だ。昔から大粒である。小粒納豆が流行しても、信太郎直伝の納豆づくりを変えるつもりはない。「大粒の大豆をしっかり発酵させること」が信太郎からきびしくたたきこまれたことなのだ。 一般に、納豆は小粒で、ほとんど糸を引かず、匂いもおとなしいものが好まれ、主流と思われているふしがある。だが、糸引き納豆と言うならば、主流は逆なのだ。 青森納豆をかきまぜてみる。ねばりがつよく、すばらしい糸を引く。その糸も真っ白で、水っぽくない。食べると、豆がしまって、大豆のうまみが口のなかいっぱいにひろがる。昔ながらの糸引き納豆の味わいだ。 「うちではいまふうの納豆はつくらないの。本当のことだけをやっていれば、本物だけをつくっていれば、このあとも続けていくことができるでしょうから。2代目信太郎は、あとが続く仕事をやれ、と口をすっぱく言ってましたから」 手をとりあって老舗の納豆づくりを守ってきた姑のタキは、17年前に亡くなった。80歳だった。人の出入りが多く、語り合うことが好きな女性だった。茶や生け花をたしなみ、通ってくる若いお弟子さんたちに夜遅くまで昔語りをする晩年であったという。 伝統食品づくりの老舗の姑と嫁。博さんに人知れぬ苦労は当然あったと思うが、ひとことも愚痴話や苦労話は出なかった。 「タキさんたちの時代は、冷蔵庫がないから、朝も3時前には冷気のなかで働き始めるとか、食糧難で納豆をつくろうにも豆がないとか、そういう修羅場をくぐってきた人たちなの。苦労だなんて、私なんか、らくなものでしたよ」 自分にはきびしく、他者にはやさしいまなざしが微笑した。みちのくの風雪をくぐりぬけてきた女性のまなざしだ。 (2003.6.10) |
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