農業協同組合新聞 JACOM
 
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シリーズ みちのくを生きる女性たち 第5回
朝市へ通い続けて50年
簾内敬司

大森キミエさん


大森キミエさん
大森キミエさん
(おおもり きみえ)
1919年生まれ。85歳
 「いまとなれば、自分のやってきたことが夢のごとくです」
 夢のよう、ではなく、夢のごとく、と言った。リンゴや畑作物をつくり、それをリヤカーへ積んだり、籠に背負ったりして、周辺の朝市へ売りに歩いた。半世紀にもなる。30年通い続けた大館(おおだて)の朝市では、「鹿角(かづの)のババ」と言えば大森キミエさんのことだ。
 秋田県鹿角市の草木地区。北東北三県が接する山中の鹿角地方のなかでも、かつて「陸の孤島」と言われた。こどもの頃はランプ暮らしだった。家に電球が灯ったのは、10歳のとき。家のなかがいっぺんに明るくなった。嬉しかった。
 2歳のときに母親が死んだ。祖母に育てられた。7人きょうだいの3番目で次女。20歳のとき、同じ草木地区の丸館の大森家に嫁いできた。大森家は戸数18戸の丸館集落の本家。いまでも大きな家屋だが、昔の間取りは30間(約54メートル)に及ぶ曲がり家だった。
 夫の金盛(きんせい)さんは当時の大曲農林学校(現在の大曲農業高校)を卒業。農業技術者だった。はるばる県北から県南の名門農林学校へ入学する人は、めずらしかったろう。
 キミエさんが朝市へ商いに出かけるようになったのは、32歳のときからだ。それまで商いにいっていた姑が亡くなり、代わって朝市に出かけなければならなくなったのだ。
 黒ぼく地帯の台地。リンゴのほかにも、畑では長芋、ニンジン、白菜、ナス、キュウリ、トマト、アズキ、大豆、それにアワやゴマなどもつくった。金盛さんの栽培技術指導でいいものができた。
 市へは当初、別家のかあさんたちに連れていってもらい、手ほどきを受けた。売り値も決めてもらった。見よう見まねの商いだった。だが、市通いが始まってからは、とたんに忙しくなった。田んぼをやり、畑をつくり、漬物などの季節の手づくりの品も準備する。睡眠時間を削り、無我夢中で働いた。
 山歩きが好きだったから、春の山菜や秋のキノコも市へ持っていった。冬は漬物のほかに、年越ソバ、正月用の供えモチ、切りモチもよく売れた。客の求めで、シソ、アワ、ゴマをまぶした干しモチも作るようになった。
 市は月に六度の六斎市が多かった。鹿角地方の場合、花輪(はなわ)が3と8の日、毛馬内(けまない)が2と7の日、大湯(おおゆ)は4と9の日。隣りの小坂町は1と5の日。遠くは県境を越えて、岩手県の浄法寺の市までリンゴを売りにいったこともあった。
 鹿角地方では、市は町場の意味でもある。「町の日」は市日のことであり、「町が立つ」とは市立て、市が開かれることを意味する。歴史も古く、花輪の市は400年前、江戸時代の初期には始まっていたと言われる。また、嘉永2(1849)年に毛馬内を訪れた蝦夷地探検家の松浦武四郎は、「当所の市日(略)其繁華なること云つくしがたし」と評している(鹿角日誌)。
 戦前、花輪の市日には、花輪線の列車は超満員となり、貨車にまで客が乗り込む混雑ぶりだったという。ローカル線の存続さえ危ぶまれる今日、想像もできない賑わいの光景だが、キミエさんは明らかに、そうした光景の延長線上を歩いてきたのだ。
 温泉郷でもある大湯が丸館からは最も近い。それでも歩けば一時間はかかった。その道のりを、荷物をいっぱいに積んだリヤカーを引いていくのである。
 平坦な道ではない。家を出ると間もなく、杉林の峠がある。曲がりくねった坂道だ。昔は舗装道路ではない。きつい勾配の坂道を登りきるために、こどもたちも朝早くリヤカーの後押しを手伝った。息子2人、娘2人の4人を育てたが、こどもたちはその手伝いが終わってから学校へ登校した。
 ほかのところには、籠を背負って歩いていった。小一時間歩くと、柴平という小さな駅に辿り着く。そこから列車に乗っていった。
 雨の日も雪の日も市へ歩いた。集落が雪に閉ざされると、別家の人たちが道路の雪を切り分けてくれた。吹雪の日は視界まで閉ざされる。それでも市通いを続けた。
 「約束があるから」
 次にくるときは沢庵を、あるいは玄米漬けを持ってきてほしいというふうに、客があらかじめ注文をしている場合があるから、どうしても行かなければならないのだ。前日のうちに支度をしておき、朝6時半には家を出る。8時までに市へ入らなければならない。
 市では場所割りが決まっている。ビニールの屋根を掛け、持ってきたものを並べると、あとは「待っている人」である。馴染みの客を、坐って待つ。客にとっても、キミエさんは「待っている人」なのだ。雨の日も雪の日も、待ちつ、待たれつの半世紀であった。
 夫の金盛さんは90歳。数年前から入退院をくりかえし、いまは在宅療養の身だ。キミエさんの食事の世話しか受け付けたがらないという。だから、いまは介護のために市通いを休んでいるが、この春までは家族や娘の運転する車で、大館の朝市へ出かけていた。
 85歳。歩き過ぎるほど歩いた人生だった。その人生の重荷を一身に支えた両脚の膝が痛い。それでも、いまも朝市へ行きたいと言って、明るく笑った。
 「待ってくれている人たちがいるから」 (2003.10.2)


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