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小原 昭さん 1927年生まれ。76歳。
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「見えないものに守られてきたような気がします」
強い意志を感じさせる表情と、柔和な笑顔。激しく突き抜けてしまったものがあるのだろう。
岩手県北上市の大地3400ヘクタールの一角、後藤野。小原昭さんが後藤野開拓地に最初の一鍬を入れたのは1949(昭和24)年4月のことである。23歳だった。
小学校4年生の3学期、小雪の舞う日。少女昭(てる)さんは両親とともに故郷和賀の藤根駅を立ち、中国大陸へ渡った。その後、ハルピン市青年義勇隊中央病院の看護婦養成所に入所。父久五郎のお膳立てだった。ホロンバイル開拓組合に病院を開設した際には看護婦になってもらいたいという父の願望であったろう、と昭さんは後年になって思う。
だが、その父の死、敗戦、引き揚げの混乱が怒濤のように押し寄せた。看護婦たちに手渡された青酸カリのカプセルを何度飲み込もうと思ったことか。そのたびに生き別れた母の顔を思い出した。母は厳しい目で見据えて、強くあれ、もっと強くあれ、と励ましているようだった。九死に一生を得て故郷へ引き揚げてくると、その母と弟の死を告げられた。自分一人で生きていくしかないと思った。
5人兄弟の次女。昭和23年春、盛岡の「友の会生活学校」で裁縫やミシン、パンづくりなどを1年間で学んだ。校長先生が東京の病院で看護婦の仕事があると言ってくれたので、上京するつもりだった。
ところが、姉夫婦が後藤野で一緒に農業をやろうと言う。人生の岐路だった。義兄の熱心な誘いに、折れた。
政府が「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定したのは敗戦の年の11月である。昭さんが引き揚げてきたのは翌年の11月だった。そして、昭和23年、開拓農協法が施行される。全国15万戸の開拓入植者中、北海道の2万3千戸に次いで多かったのが岩手県の1万戸であった(和賀町戦後開拓史『荒地に根をはって』)。
砂礫質と火山灰土層という二つの漏水性土層の原野だった。開拓は木の根っこを掘ることから始まった。注射器を持つ手に鍬を持った。とにかく石ころが多かった。地下足袋も買えず、素足にフキの葉を巻きつけて大地を踏んだ。
土にまみれた。風呂は露天のドラム缶だった。風が吹き抜けていく掘立小屋に干し藁を敷き、泥のように眠った。
1年半をかけて1・5ヘクタールの耕地を伐り拓いた。だが、強度の酸性土壌に肥料もなかった。最初の収穫は、種子イモより小粒のジャガイモだった。それでも、稲荷神社に供えて、手を合わせた。
昭和26年に結婚。姉夫婦はさらに奥まったところに入植し、独立。それまで、菜種油に綿をこよりにしての灯火暮らしだったが、ランプ生活になった。乳牛を入れ、鶏も100羽ほど飼う。ほかに豚と緬羊。馬を1頭買って畑を起こし、助けられたが、朝は朝星、夜は夜星で働くことに変わりはなかった。
開拓農業に誘った義兄が心臓発作で亡くなり、今度は夫の清七さんが急性肺炎で亡くなった。昭さんが44歳の時だった。政府が戦後20有余年の開拓政策に終止符を打ち、開拓農協が解散した記憶すべき年でもあった。
「毎日が戦争で、泣くヒマがなかった…」
3人の育ち盛りの子どもたち、姉家族、そして乳牛や畑が、昭さんの小さな肩に一気にのしかかってきた。酪農は夫まかせだったので、乳牛の世話は恐かったと言う。子牛も含めれば30頭ほど飼っていたが、管理がまずくて5、6頭も死なせてしまった言う昭さん。
夫が亡くなってから一番苦労だったことは、と尋ねた。
「どんな仕事でも女ひとりでは何倍も手間がかかりました。農協の用事でも、男であれば一日で済むものを、むずかしいことは理解が行き届かないものだから、女だと何日も往復しなければなりませんでした」
苦労を支えたものは、と尋ねると、即座に一言だけ返ってきた。
「子どもたちが支えでした」
愛される人になれかしと願ひつつ
遠くつとめの我が子送りぬ
(小原昭『ホロンバイルは遠かった』青磁社)
自分の生きてきた苦闘の日々を、一字一句、メモ書きにしてためこんだ。ノートがわりの紙は、肥料袋の汚れていないところを半紙大に切って束ねた。ランプを使っていると油代がかかるので、月明かりで書いた。娘が嫁に行く時、タンスの底にでも黙って入れてやるつもりだったと言う。
その娘も青森に嫁いで48歳になった今、「かあさん、目に会ったなあ(苦労したなあ)と言ってくれる」と昭さんは眼鏡の奥の目を細めた。娘の家では笑い声が絶えないと言う。「私は苦労というものをみてきたもの」という娘の言葉が、何より嬉しかった。肩の荷が下りた心地だった。
「いろんなことがありましたけれど、雪が溶けるように消えました」 (2003.12.15)