農業協同組合新聞 JACOM
   

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シリーズ みちのくを生きる女性たち 最終回
女ふたりが生きてゆく
簾内敬司

山口チヱさん  山口光子さん


山口チヱさんと山口光子さん
山口チヱさん(1922年生まれ。81歳)
山口光子さん(1955年生まれ。48歳)
 旅館「六助」の当主は代々、六助を名のってきたようだ。親しみを感じる名前だが、何代続いてきた屋号なのかは不明という。それほど古いのだろう。現在の当主は山口チヱさん。21歳で「六助」に嫁いできて60年になる。
 北東北は秋田と岩手の山深い県境の温泉峡、湯瀬。秋田県鹿角市の数ある温泉峡のなかでも、古くからの名湯だ。
 冬の寒さは厳しい。山峡の谷底に150戸ほどの民家が軒を寄せ合う。ホテルや旅館が7つ。ほかにも入湯施設がある。湯量が豊富なのだろう。夏には、川のなかに湧出する温泉で露天風呂を造り、こどもたちの夏休み行事に活用したりの村興しのイベントなどもあるらしい。
 深い渓谷は風の通り道だ。旅人もまた風に似ている。200年以上も昔、菅江真澄が湯瀬に辿り着いている。天明大飢饉の後、津軽藩領から秋田藩領を抜け、南部藩領へ。1785(天明5)年旧暦9月2日のことである。翌3日の暁天、まだ星影を映す湯船につかり、真澄は宿を旅立った。
 それから140年ばかり後のこと、その真澄を追って湯瀬に辿り着いたのは柳田国男だ。昭和3年の同じ秋のころだが、真澄や柳田が立ち寄った一夜の湯宿は、どこだったろうか。柳田は「川岸の宿」としか書いていない。
 日本民俗学の始祖とも泰斗とも目される二人の旅路を追って辿り着いたのが、旅館「六助」だった。ただし、「六助」が古い湯宿だとは言っても、真澄と柳田が泊まったかどうかはわからない。ただ昔日の風情を感じさせる素朴な雰囲気がよかった。「姑と嫁」という2人の「みちのく女」の仲睦まじさが印象的で、好ましい「川岸の宿」だった。
 光子さんが「六助」に嫁いできたのは24歳のとき。5人きょうだいの長女。岩手県雫石町から嫁いできて、もう25年になる。チヱさんの長男で、夫の洋悦さんは39歳で亡くなった。それからは女ふたり、力を合わせて「六助」を切り盛りしてきた。
 「お客さんの料理は手を抜きませんが、自分たち2人だけの食事は、忙しいものだから、どうやって手を抜こうかとばっかり考えているんです。それでもおかあさんは、どんなものを食べさせても、おいしいって言ってくれるんですよ」
 光子さんはそう言って明るく笑った。台所仕事は苦にならないと言う。「食べることが好きだから」とも。
 料理は光子さん、後始末はチヱさんの役割分担だ。その分担を守ることが肝心なことであるらしい。光子さんの仕事ぶりについて、チヱさんに尋ねると、こう言った。
 「なるべく私は手をかけないようにしています。仕事にはその人なりのやり方や順序がありますから」
 チヱさんの父親は東北線や花輪線の駅長だった。父親の転勤で各駅停車のように所在は転々としたが、鹿角市大湯に落ち着いた。3人きょうだいの長女だった。夫の一夫さんに嫁にくるときは、花輪線の汽車に乗ってきたと言う。
 湯瀬はすっぽりと山に囲まれている。男たちは炭の供出に忙しかった。樺太への林業の出稼ぎも盛んだった。チヱさんの舅も樺太へ出稼ぎに行っていたという。もちろん戦前の話だ。
 戦後、湯瀬が最も温泉客で賑わった時代をチヱさんは生きてきた。子育てがあり、「六助」も忙しかった。女中さんを3人雇っていた時期もあった。その当時の賑わいを振り返れば、いまは比ぶべくもないと言う。
 「やはり温泉場というのは、お湯につかったお客さんが下駄の音を響かせて、界隈の路地を歩くようでないと…」
 そのかわり、多忙だった賑わいの当時は手につかなくて、やっといまとなってできることもあった。裂織(さきおり)である。部屋のテーブルや棚に美しい織物が敷かれている。チヱさんが織ったものだ。4人のこどもを育てたが、長女ひとりだけが生き残った。湯瀬渓谷の冬を吹き抜けていく風雪のような人生であったかとも思うが、おくゆかしい気品を失わないのは「南部女」だからだろうか。
 光子さんは生け花を学び、地元の商工会の集まりにも顔を出し、イベントにも参加する。永六輔らを招いての「尋常浅間学校かづの分校」の事務局も、「ロクスケの縁だから」と引き受けた。その新年会には仲間たちが80人ほども「六助」に集まり、広間を埋めての大宴会になると言う。
 「それもこれもおかあさんが何でも好きなようにやらせてくれるから。幸せだねって、友達にも羨ましがられるんです。自分でもつくづくと幸せ者だと思うんです」
 みちのく社会は保守的な血縁社会とばかり信じ込まれているだろう。だが、チヱさんと光子さんの言葉には、それを超える新しい関係性が感じられた。血縁社会を超える精神の血縁とでも言おうか。姑と嫁だが、それぞれに自由だ。
 この仕事のむずかしさについて尋ねると、「お天気商売ですからねえ」と光子さん。季節によっても、雨が降っても、確かに客足は影響を受けるだろう。だが、そればかりではない。光子さんは農業のことを言っているのだ。
 「やはりおコメですよね。この周辺の農家の人たちがお客さんですと、どうしても冷害なんかでおコメがとれなければ、お客さんが元気がなくなるんです。ですから、毎年おコメがちゃんと育って、うまく沢山とれてくれると、私どもにとってもいいんです」
 やはりコメなのだ。いかなる地域のいかなる暮らしであろうと、コメが見えないところで私たちの精神や生存を規定したり、また可能にしている。
 人間の関係性、そしてコメとの関係性。風雲のなかにありながら、いぶし銀のような精神世界を織りなすその縦糸と横糸。
 みちのくでめぐりあった女性たちには教えられた。チヱさんと光子さんもまた、あるがままのみちのくに生きていたのではない。あるべきみちのくを生きているのだ。 (2004.4.19)


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