|
||||
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ |
シリーズ 「個配事業」の創造と21世紀的可能性−東京マイコープ |
こうした背景を踏まえて、生協の歴史を辿り直してみる。参考資料は事業連組織が編集した『連帯と協同の20年』(1997年3月刊)、東京マイコープの前身・Eコープ編集の『彩・Eコープ20年史』(1990年4月刊)、東京都生協連合会編『東京の生協運動史(続編)』(2001年2月刊)など。設立と合併連帯の主要な経過は以下の通り。
これらに加盟上部生協である首都圏コープ事業連合(会員は首都圏8生協)が大きな役割を果たすのだが、事業連合には触れずに進もう。 初期リーダーで、合併連帯の中心作業にいた下山保氏(たつみ生協出身)のコメントを引用しよう。 「76年に日本生協連が発表した[第1次中計]は、私たちの小生協に大きな衝撃を与えた。なぜなら、その内容は県内で拠点生協づくりを進め統一して行く、すなわち強い生協に弱い生協を統合していこうということだったからだ」 これを、日生協公文書で確認しておこう。1978年6月に決定した方針で、拠点生協論が登場した。それまでの長い討議を踏まえて、日本生協連 「第1次中期計画(78〜80)」となる。その中で県連機能と赤字単協対策、拠点単協づくりが提起された。これに下山氏以下が敏感に反応した。事実76年7月、都内では文京勤労者、戸山ハイツ、都民の3生協合同によって東京都民生協(現在のコープとうきょう)が誕生したからである。転換点だった。第2次オイルショックも押し寄せたからだ。 この頃あけぼの、北多摩、立川など関連友好生協が経営難問題をかかえ、その克服に多大のエネルギーを消費した。当時私は招かれて、北多摩生協の定期総会で情勢報告したことがあった。累積800万円を超える赤字を抱えていたのが、忘れられない記憶である。直ちにそれは全農関連協同会社との米取引の担保問題に直結したからである。 最近下山氏を取材した。集約すると以下のようだ。 ・私自身は森定進氏、斉藤嘉璋(以後共に日本生協連理事)氏とは早稲田大学生協時代からのつきあいだった。ただし私は社会党員であって、大学生協に入ったことはない。それが江東・辰巳団地自治会長になって、住民運動・生協設立運動に関係するようになった。 ・1970年、都民生協設立の主旨とは違う人達、労働者クラブ、生活クラブ、タマ消費などの生協と、江東・海岸線方面に生協設立を話し合った。みな賛成してくれた。いわば生協ルネッサンスの時代でもあった。日本生協連の勝部欣一氏、竹井二三子氏らは東京生協問題をかかえていたから、勿論設立反対だった。 ・日生協の中計拠点生協論を実践的に乗り越えることが小さな生協にとって課題になった。つまり「連帯」問題。多く語り合ったし、意見の違いがあって当然だった。 ・ 飛んで、1984年のOCR採用、それに協力してくれた東都生協らに感謝。なんといっても銀行自動引き落としができるかどうかが大きな分かれ目だったからです。 以上から、社会的信用を創るのに、80年代半ば、組合員の予約注文書を自動読み取り処理するOCR(光学式文字読み取り)方式の採用が如何に意味大きかったか。外部から見ていると、連帯するエネルギーときっかけは本当に分からないものだ。 (元協同組合経営研究所研究員・今野 聰)
(2003.6.5)
|
特集企画 | 検証・時の話題 | 論説 | ニュース | アグリビジネス情報 | 新製品情報 | man・人・woman | 催しもの 人事速報 | 訃報 | シリーズ | コメ関連情報 | 農薬関連情報 | この人と語る21世紀のアグリビジネス | コラム | 田園交響楽 | 書評 |
||
社団法人 農協協会 | ||
|