◆下馬生協のこと
|
全て委員長研修から
|
ここでもうひとつ、外部からは分からないことがあった。都下の下馬生協である。戦後すぐ1946年、町内会生協から発展した。家計簿運動とか、子供教育とか、産直運動はいつも全国生協の模範だった。店舗展開はおよそ20年間で、下馬(63、66年)、目黒(68年)、上町(70年)、柿の木坂(74年)、上目黒(74年)、駒沢(75年)、駒留(78年)、用賀(79年)、目黒本町(83年)、松沢(83年)の11店舗になった。ところが80年代後半、スーパーなどの都内流通競争のあおりを喰った。中小店舗中心だったこともあって、その経営不安が一挙に押し寄せた。
危機打開策として、87年、たつみせいきょうと店舗加工部門(鮮魚・食肉)で提携。またコープアイ設立に7生協と共に参加して、日生協船橋生鮮センターの共同利用になった。
90年、ジグザクの後、店舗経営改善に首都圏コープから参加してもらう。91年度は組合員2.5万人、事業高26億円。ここがピークだった。では誰が救うのか。大方は合併して基盤が安定した都民生協(コープとうきょう)が吸収合併すると思っていた。難点は下馬生協内労使紛争が長期化していたこと。加えて、竹井理事長のカリスマ的指導性であった。だから正面から批判した人が内外共にいたかどうか。
◆竹井理事長の決断
私も何度か会った経験がある。実にさわやかだった。日本の生協運動では不可欠の人だった。かくて92年、大転換が起き、首都圏コープ事業連合に加入。竹井二三子理事長が名誉理事長に引いた。93年5月、下馬生協第46回通常総代会は首都圏コープ事業連合の協力のもと、組織合同準備を決議。同時に不採算店舗の閉鎖と人員整理などであった。
一方93年度目黒店、94年度、用賀、柿の木坂店、駒留店、松沢店閉鎖と続いた。経営点検をすると、相当複雑だったらしい。『東京の生協運動史(続編)』によれば、累積赤字6.8億円(日本生協連、93年6月11日)が明記されている。
そこからは一瀉千里だった。すくなくとも外目にはそう見えた。だが一体化は大変な苦闘だったらしい。渦中のリーダーである下山氏によれば、3生協で88年に設立したE
コープが受け皿になったことがこの場合、役だったという。かくて95年末に資産譲渡(実質吸収合併)。労使問題がそれなりに目途が着いたからだった。
◆引き継がれる地域の目
その後、竹井二三子元理事長は体調を崩し、98年10月10日、83歳で亡くなった。葬儀の代表世話人は森定進氏(東京都生協連)だった。コープこうべの参列者は、東京マイコープがきちっと葬儀を執り行う様に驚いたらしい。
ここで下馬生協の特徴的な「子ども文庫」25年の記録『地域で人が育つ−組合員活動の記録』(99.2.23)から、竹内よう子さんの編集後記を引こう。
「生協運動の原点は人づくりと言い続けて、生涯生活者の視点で組合員活動に情熱を燃やした母(故竹井二三子)の言葉を思いかえしながら、地域で自分たちで自分たちをつくっていく、つくりかえていく努力を重ねていけたらと願っています」
これを読んでも、子供からの生協運動という筋道は、今日忘れてはならないことだろう。
(2003.6.25)