◆破壊と創造の繰り返しから
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佐藤忠吉さん |
奥出雲の山道を車で走る。
といっても運転席にいるのは私ではない。大正9年生まれ、今年85歳の佐藤忠吉さんがステアリングを握っている。走る、というより飛ばすといったほうがいいかもしれない。
痩身に白の半そでワイシャツ姿。今もこうして牧場、仲間の農場や企業、そして自身が創業した木次乳業(有)を回る。出会う人に渡す名刺の肩書きは社長時代から「百姓」だ。
佐藤さんはその百姓として有機農業や山地酪農、農と商工の連携など、長年、リーダーとして農村を引っ張ってきた。このシリーズにあたってその実践の道のりと提言を聞かせてほしいのだ、と言うと「私一人じゃない。この地域全体でやってきたこと」とぴしゃり。
「破壊と創造の繰り返し。その時代の常識から見れば非常識で周りからは笑われ、さげすまれた。しかし、その度合いが大きければ大きいほど、10年先には大きな成果があるんだと思っていました」
◆農民の自立へ未来志向の農業
車で案内されたのが、木次乳業直営の日登(ひのぼり)牧場。もともとは有機農業の実践農家が集まり平成元年に開設した。
目指したのは「脱」穀物型の畜産だ。里山で山地酪農が行われている。そのために日本で始めて乳牛としてブラウン・スイス牛を導入した。朝、搾乳を終えて牛舎を出た牛は山で草を食みながら夕刻まで過ごす。
「輸入した穀物に頼る酪農がこれからも続けられるのか。輸入するにも金がなくてはどうする。そのときにも自給できる酪農をやろう」。
まだ飼料の完全な自給は達成していないが、ブラウン・スイス牛乳として販売。山地酪農が21世紀の持続的な酪農の姿であることをパッケージに表記し関西の消費者から支持されている。
もうひとつこの牧場で目指したのが障害者と老人の共同就業の場を作り出すことだった。
共同就業の場づくりは、佐藤さんより20歳年下で佐藤家で農業を研修し若いころからともに農と地域での暮らしのあり方を考えてきた大坂貞利氏だった。
「生まれてきたからには存在する意味が必ずある」との大坂氏の信念を佐藤さんは「人にはそれぞれ役割がある」と考えてこの牧場を開設した。
どんな農業をするかだけでなく、その土地でどう生きるかを考えてきた佐藤さんたちの姿勢がよく表れている。現在も共同就業の場をめざす。
この日登牧場は大坂氏が中心となって経営していた。が、残念なことに11年前に牧場で農作業中の事故で急死してしまう。大坂氏の死は佐藤さんはもちろん、地域の人々に大きな衝撃を与えた。
なぜなら、木次で有機農業や健康な食づくりへの取り組みにみなが真剣になったきっかけは、昭和30年代に大坂氏が鋭く指摘した一連の人と自然の異変にあったからだ。
◆常に先見性を持ち続けること
昭和21年に戦地から復員した佐藤さんは30年に6人の同志とともに牛乳の製造販売まで手がける酪農を始める。これが木次乳業のスタートで、単なる食材の生産では農民が自立できないと、加工・販売まで取り組むべきという発想をした。
しかし、昭和35年ごろになると飼っている乳牛の挙動が不安定になったり繁殖障害が出るなど異変がみられるようになった。それは硝酸イオン中毒で、大坂氏は佐藤さんに化学肥料による牧草栽培が原因ではないかと指摘した。
牧草は自然栽培に戻すが、40年に今度は田の畦草を食べた牛に瞳孔の異常が発見された。それは農薬が誤ってかかった畦草だったと大坂氏が知らせる。さらに牛乳だけではなく、人間の母乳にも影響があることを医師の警告で知る。
近代農業を始めて5、6年の間に起きたこうした異変から今で言う有機農業への転換を考えるようになる。農協もDDT、BHCの販売を取りやめ町全体でも使用を禁止した。
佐藤さんはそのころのことを社報に「私たちが何げなくやっていた近代農法は、人の心の弱点に付け入った都市の都合。農民の主体性、自主性を棄てさせるものではなかったか」と書いている。
近代農法の「破壊」は当時まだ公害問題などが指摘されていない時代だったことを思えば先見性のある取り組みだったといえるが、実は本当の先見性は故大坂氏と議論しながら、農民の主体性を「創造」するものとして、有機農法への取り組みを始めたことではなかったか。その有機農法の考え方とは、「モノを売って媚びるのではなく、まず自分たちが健康に生きることをまっとうするために食べ物をつくることから始める」である。
昭和53年に日本で初めて低温殺菌牛乳(パスチャライズ牛乳)を販売し、学校給食への供給を実現したのも、その土地で生産されたものを生に近い姿で届けようという考えからである。そこには単なる乳業メーカーというよりも「農民として次の世代へ胸を張ってつなぐことができる生き方を示す集団」(社報より)との考えがある。牛乳も「生き方を考えるための素材」であり、その販売とは「それを作り出す方法も含めて世に送り出す」(同)ことだという。
そんな考え方からすると、昨今の“消費者ニーズに即した生産”について「本来は農民が自己体験のなかから、何をどう食べるか、何を生産するかを考えるべきなのに、今の農業は都市のご機嫌とり農業になってませんか」と手厳しい。
「人としてこの土地でどう生きるのか。農はそのための大切な手段」
◆協同のあり方は地域全体の課題
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「食の社」の庭で生産者と語り合う佐藤さん。
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こうして佐藤さん自身、何度も病気にかかったこともあって「自分の目の届くところから食べる」ことで健康に生きることをめざし、木次有機農業研究会を立ち上げるなど、昭和50年代から地域内自給にも取り組むようになる。酪農経営も地域で自己完結できる「小農複合経営」をめざした。今も木次乳業に出荷する酪農家は30頭から40頭程度の規模である。
そして地域内自給から域内共同へといたるのである。その考え方はこうだ。
地域の農家が自己の生活を自足するよう生産を始めても、自給度を高めようとすれば、個人の力の小ささや限界に気づき、どうしても協同することが必要になる‐‐。ここから「ゆるやかな共同体」という発想が生まれることになった。
今回訪ねた「食の杜」はその「ゆるやかな共同体」の姿が集約された場所だ。
開設されたのは、平成9年。ここは山間部の荒れた農地を生産者や消費者、研究者、医療関係者など職業も年齢も越えた人々が基金を出し合って自分たちの農場にしたいとの思いで買い取ったのが始まり。
茅葺屋根の築100年以上の農家も移築してメンバーが交流できる場にした。現在は生産法人宝山農園として、さまざまな人が農に携わる農場づくりを最初に提唱した地元の田中利男さんを中心に14人が野菜や果物をつくっている。新規就農者や養護施設の生徒らもメンバーになっている。
ここに次々と農・商・工が連携した施設が集まって11年に現在の施設になる。集まったのは、雲南地方の農家と商工業者が手を結び農家がこだわりを持ってつくった農産物の加工品などを共同で販売する「風土プラン」のほか、目の前のブドウ園で実ったブドウからワインを作るワイナリー「奥出雲葡萄園」や、脱サラではじめた豆腐屋さんやパン屋さんなどだ。レストランでは農園で作った野菜、ブラウン・スイス種の肉、木次乳業のチーズなどが味わえる。
また、ネットワークづくりでは、百姓の意地で世界をあっと言わせるアイスクリームをつくろう、組合員のための農協でなければ意味がない、とJA雲南に話を持ちかけスーパープレミアムアイスを提携してつくってもいる。佐藤さんは「フランス料理のフルコースまで自給できるようになった」と言う。
◆活性化ではなく沈静化こそ村に
ネットワークを広げ、維持していくその要の人物といえば、強力な自己発信が必要ではないか、と聞くと「そんな構えたものじゃありません。自己アピールほどいやなものはない。必要に応じて人は出てくるし、その範囲でやればいいんです」と言う。
ゆるやかな共同体とは、自分も不完全だし、相手も不完全だと認めることから始まるという。だから、規約、きまりごとなどあまり決めない。
「発展というよりも時代の変化に応じていくということです。変化するものに定款などいらないでしょう」。社長時代は管理されず管理せずが方針だった。
ただし、繰り返し強調するのが「まず自分で実践すること」だ。これは篤農家だった父の姿から受け継いだことだという。
「おやじは必ず自分の畑に試験的に新しい種を播くなど常に新しいことをやろうしていた。百姓は身についたものが知識。頭で考えたことなど正月の計画と同じ、と言われて育った」。
今のネットワークづくりからもそれが分かる。たとえば、宝山農園の代表、田中さんは平飼いをする養鶏農家だが、有機農業の実践のなかで最初に平飼いを試みたのは佐藤さんだ。それが可能になったところで田中さんに提案した。今、もうひとりの仲間と平飼いと餌などにこだわった有精卵を販売しているが、これを木次乳業に出荷、牛乳の販売先に一緒に届けてもらうことで経営も成り立たせているのだ。奥出雲葡萄園ももともとは佐藤さんが試験的に山ぶどう栽培したことがきっかけになって立ち上がったものである。
「有機農業とは農業だけなく人の有機的なつながりもつくりだすことです」と田中さん。また、12年前から日登牧場で働く非農家出身の有馬みや子さんは「ここに来て分かったのはみんなが自立して共存、助け合う地域だということです」と話す。
◆考えること、生きること
ところが、こうした地域に居て佐藤さんはかつて「ムラには活性化ではなく沈静化こそが必要だ」と厳しく批判した。
この国で地方の活性化が叫ばれはじめた10年以上前のことだ。
その真意は「活性化といっても人として生きるための活性化ならいい。
しかし、叫んでる人はみな経済のことばかり。こっちのムラが良くなれば隣りのムラはだめになる。生きる気迫もないなかで何が活性化か」だ。
平成5年、町は品格ある簡素な村づくりを提唱した。佐藤さんたちの考え方が反映されている。
組織は大きくはしないし、作物の反収も牧場の乳量も平均以下でいいというのも基本的な思想だ。それが本当の食べ物をつくる生産の姿だと考えている。木次乳業の社員は50名ほどである。
佐藤さんの口からは農民の自主自立という言葉が幾度となく出てくる。だから、有機農業といいながらも国の進める認証制度について「基準がなければ国際競争に負けるというが、農家はその土地土地で自主独立して農業をするもの。行政に言われて動くようでは本当の食べ物は見えない」と批判する。
こういう指摘を聞くと、「ゆるやかな共同体」とは、ひょっとするとかなりきついことかもしれないと思う。それぞれが考え自立していなければならないからだ。
「人としてこの土地でどう生きるかが第一。
その手段として酪農も乳業もある。自分の足で立とうということです」。
生涯現役の百姓、佐藤忠吉さんのメッセージである。
多様性を生かし共益を追求
―佐藤忠吉さんの思索と実践―
今村奈良臣 東大名誉教授
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今村奈良臣
東大名誉教授
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今年、85歳になられた佐藤忠吉さんが、今なお、かくしゃくとして智恵とパワーを発揮されているが、その源泉と原点は何か。私なりに、これまでの長いおつき合いを通して考えてみた。大胆に3点で集約できると思う。
第1、空間軸と時間軸という2つの基本軸を常に踏まえて思索し行動していることである。空間軸は木次町という地域だけでなく、世界、欧米、アジア、日本を常に視野において考えている。北欧の農業視察にも行かれるし、ブラウン・スイスはカナダから入れてくるし、中国との交流もするし、日本各地の消費者たちを友人に持っている。時間軸の視点もたしかなものを持っている。表層的な近代農業技術や農業政策への批判的観察眼、高度成長時代の地域農民の行動様式への観察力、そしてそれらの上に立った5年先、10年先の展望の提示など、本紙リポートからうかがい知ることができよう。
第2、かねてより、私の信条としてきたことは、「多様性の中にこそ真に<RUBY
CHAR="強靱","きょうじん">な活力が<RUBY CHAR="育","はぐく">まれる。画一化の中からは弱体性しか生まれてこない」ということであった。佐藤忠吉さんは、この私の考え方の先を行っているように思う。すなわち、「多様性を生かすのがネット・ワークである」という考えのもとに多彩な実践を進めてこられているように思う。木次乳業にしろ、奥出雲葡萄園にしろ、宝山農園にしろ、多様性を生かすネット・ワークででき上がっている。1人1人ではできないことを、それぞれ多彩な個性を持った人材をつなぎ合わせる中から、明日を切り拓くエネルギーと展望を見出しているのである。
第3、「共益の追求を通して、私益と公益の極大化をめざそう」。この思想が佐藤忠吉さんのいま1つのバック・ボーンにあるように思われる。佐藤さんはつねづね、「ゆるやかな共同体」ということを強調されてこられた。私なりにその思想を受け止めるならば、「共益の追求」ということになると思う。
木次乳業にしろ、宝山農園にしろ、風土プランにしろ、奥出雲葡萄園にしろ、それらの経営体、企業体が大きな利潤を上げるのを目的として設立、運営されているのではない。
そこで働く人々、そこへ原料を出荷する人々、そこへ参画して地場産業を興そうとしている人々――こういう人々のフトコロを温めるためにあるように思う。つまり「共益の追求を通して私益の極大化」をねらいとしているように思う。さらに、こういう企業体が全国の消費者に喜んで買ってもらえる――つまり「共益の追求を通して公益の極大化」をねらいとしているのである。
私なりに佐藤忠吉さんの思索と実践を3点に大胆に整理してみたが、全国各地の皆さんも、こういう視点から改めて考えていただきたいと思う。
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