農業協同組合新聞 JACOM
   

風向計

進まないイラクの経済復興

東京外国語大学大学院 酒井啓子教授に聞く
聞き手:原田 康(本紙論説委員)


 イラクの治安が悪化し、駐留米軍の被害が再び拡大。米国ブッシュ政権はイラク戦略の見直しを迫られている。北朝鮮とイランの「核」問題などとともにイラク情勢には目が離せない。石油の関係でも同国は日本にとって重要な存在だが、陸上自衛隊がサマワから帰った後、国民のイラクへの関心は薄れている。それに、もともと中東情勢を知ろうとしない人が多い。
 そこでイラク政治史と現代中東政治を専門とする酒井教授に(1)イラクの現状(2)中東全体への問題の波及(3)日本の対応などを聞いた。(聞き手は原田康本紙論説委員)

◆石油収入の使途は謎

東京外国語大学大学院 酒井啓子教授
さかい・けいこ
1959年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒業、英国ダーラム大学(中東イスラム研究センター)修士。在イラク日本大使館専門調査員、アジア経済研究所参事などを経て東京外国語大学大学院教授。 著書は『イラクとアメリカ』(岩波新書)=アジア・太平洋賞大賞受賞、『フセイン・イラク政権の支配構造』(岩波書店)、『イラク−戦争と占領』(岩波新書)、『イラクはどこへゆくのか』(岩波ブックレット)ほか共著など。

 ――バグダッドの市民生活は今どんな状況にあるのでしょうか。例えば電気や水などは?

 「断続的な停電が続き、上水道も供給不足です。発電能力の低下でチグリス川の水を汲み上げるポンプや浄水施設が動かない時間が長いのです。今の生活インフラはイラク戦争の終結(03年5月)直後より悪化しています。地方も同じ状況です」

 ――テレビやラジオは?

 「各家庭とも小型発電機を回して視聴しています。日本のように電波規制が厳しくないため中東では欧州のテレビ放送も衛星からほぼ全部拾えるので市民の情報量は豊富です」

 ――失業率が高いですね。

 「政府の公式発表は40%どまりですが、アナリストの大半は最高で70%と見ています。イラクには石油化学などいろんな産業がありますが、民間企業の工場は電力不足でほとんどが動いていないのですから大変です」

 ――治安が悪くなるわけですね。無収入で、どのようにして食いつないでいるのでしょうか。

 「農業者や年金受給者は別として都市生活者は蓄財の切り売りでしょうね。複数持っている自動車を1台に減らすとか…」

 ――イラクの石油輸出は現在、日量200万バレル以上で、戦前レベルに匹敵します。価格高騰もあるから十分な石油収入があるはずなのに、なぜインフラも国民生活も改善されないのですか。

 「石油収入の行方は大きな謎で米軍の駐留経費になっているともいわれています」

 ――石油代金は国庫に入る形になっているのでしょう?

 「その国庫がカラとなり、公務員の給料さえ払えない時もあるのです。中央政府の財源には石油収入のほかに先進諸国が拠出する復興資金がありますが、両方の収支がどんぶり勘定になっています。米国が出した復興資金で米軍駐留費をまかなっていればよいのですが、どうも駐留費のほうが多過ぎるのです」
 「イラクの金融システムが正常ではないため石油収入がニューヨーク経由だったりもします。また石油収入はイラクに進出した米国企業の警備費にも使われているとの説もあります。国連ではその辺をモニタリングできる第三者機関をつくるべきだとの意見も出ましたが、今のところ、うやむやになっています」

◆米国の政策は失敗

 ――反米抵抗活動の拡大にはいろんな要素があるのですね。

 「とにかく国民の教育程度も高く、ある程度の農業もあって80年代初頭まではバランスのとれた産油国といわれたイラクですが、今は経済復興が進まず、市民は食うにも困る状況です」

 ――米国はどこで戦後政策の読みを間違えたのでしょうか。

 「戦前から戦後復興の事業を米国企業が受注していたという失敗が一つあります。戦前にイラクで仕事をしていたのはフランス、日本などの企業であり、米国企業には経験がなかったため発電所や製油所といった基幹的施設の操業再開が大幅に遅れたのです。イラク人にすれば自分たちなら簡単に再開できたのに素人の米国企業が復興事業を独占したために生活が苦しくなったという思いがあります」
 「もう一つは占領とともにフセインの軍隊や警察をさっさと解体してしまい、無法状態にしたという失敗が挙げられます」

 ――アフガニスタンでもイラクでも短期間に戦争が終わったことから米国にはおごりが生まれたのでしょうかね。

 「そうですね。しかし実際にはやはり軍や治安警察が必要となり、かつての民兵に丸投げする形で新たに、それをつくりました。その結果、新しい警察はシーア派の中でも特に政治的党派性の強い人たちに牛耳られました」
 「このため政治的対立を宗教に持ち込んで、政敵つぶしのために確たる証拠もなしにスンナ派の人々を逮捕しているのではないかと、警察への信頼を損なうことになっています」
 「もともとイスラム教のシーア派とスンナ派は日本でいえば南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経の違いみたいなもので対立ではなく共存関係でした。宗派間の武力衝突は今回が初めてです」

◆反米感情高まる一方

 ――治安維持の責任は駐留米英軍にもあるはずです。

 「米軍の戦死者は9・11の犠牲者数を超えて2800人近くになっており、米国内の批判も高まっているため米軍が治安維持の前面に立つのは困難なようです」

 ――クルドという少数民族の問題はいかがですか。

 「クルド自治区との境界にあるキルクークという大油田を、中央政府か地方政府か、どちらに帰属させるかで非常に難しい問題になっています」

 ――隣国のヨルダンやシリアなどはイラクの状況をどう見ているのでしょうか。

 「米国がイラクをめちゃくちゃにしていると見ています。併せて米国の同盟国イスラエルはパレスチナとレバノンでひどいことをしており、両国に対するアラブ諸国の感情は憤満やるかたないといったところでしょうか」

 ――米軍はなぜイラクから撤退できないのですか。

 「今の状況で撤退すれば、イラクに攻め込んだメリットや成果は何だったのかが米国内で厳しく問われます。政権が変われば別ですが、ブッシュ大統領の下では何か良い口実がなければ退くに退けないのです」

 ――日本はイラクの復興支援で何をすれば国際的に評価されると思われますか。

 「陸上自衛隊が行った時、日本には米英軍にできないことをしてほしいと現地は望み、電力供給や雇用を期待したのですが、それらは空ら頼みに終わり、自衛隊の支援は結局、焼け石に水といった感じになりました」
 「とにかくイラクは日本を含め外国の企業に出てきてほしいのです。しかし治安が悪いから、それには応えられません。ではどうすればよいのか。支援にはいろんなやり方があるはずです」
 「例えば、イラク人の技術者をたくさん日本に招いて研修を受けさせ、現地の工場が早く操業を再開できるようにするといったリモートコントロール的な形も経済復興を促す一つの手法ではないでしょうか」

インタビューを終えて

 イラクは、チグリス川とユーフラティス川流域に栄えた古代メソポタミア文明という歴史を持っている。高い教育水準、肥沃な土地、豊富な水、さらに石油と豊になる条件が揃っている。ブッシュ大統領は2001年「9・11」のテロ攻撃を受け同年10月アフガニスタンと戦争、これが一段落して2003年3月イラクに侵攻したが41日後の5月にはイラク戦争終結を宣言した。用意周到な準備で戦争を始めたにも拘わらず、“イラクでやってはいけないこと”と整理したことばかりをやってしまっている。酒井先生もご指摘のように、シーア派もスンナ派もクルドの自治独立派も長い歴史の教訓でお互いにバランスを保って共存をして来たのが、イラク戦争によって内乱という最悪の状態となっている。
 日本の企業は1970年代の後半から80年代にかけて化学肥料工場、火力発電所、石油精製プラント、病院などをイラク政府から直接受注して日本の設備、技術力についてイラクの人達から高い評価を得ていた。中東の石油に頼らざるをえない日本はこの地域の人々の置かれている状況を正確に知ることが必要である。(原田)


(2006.10.31)


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