農業協同組合新聞 JACOM
   

風向計

草原の劣化に懸念も ―モンゴルの波瀾をたどる―

国立民族学博物館研究戦略センター教授 小長谷有紀氏に聞く
 聞き手:原田康本紙論説委員


 チンギスハーンやフビライ、元寇――日本人と蒙古の関係は古い。ウランバートルへは4時間余り。だがモンゴルとはどんな国?と質問しても答えられる人は少ない。近くて遠い国だ。今回は同国に焦点を当てて小長谷教授から話を聞いた。1924年に社会主義国となり、農牧集団化の急展開などがあったが、90年には社会主義を放棄するという波瀾をたどった。今は市場経済の中で遊牧民の再共同化を進める動きがある。聞き手は原田康本紙論説委員。

 

こながや ゆき氏
こながや・ゆき
1986年京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学、京都大学文学部助手、国立民族学博物館第I 研究部助手、同館民族社会研究部教授などを経て現職。
 著書は「世界の食文化(3)モンゴル」(農山漁村文化協会)、「モンゴルの二十世紀―社会主義を生きた人々の証言」(中央公論新社)、「モンゴル草原の生活世界」(朝日新聞社)など。編著は「ユーラシア草原からのメッセージ・遊牧研究の最前線」(平凡社)ほか多数。

◆社会主義下で近代化

 ――モンゴル人といえば朝青龍や白鵬らを思い浮かべますが、彼らのものの考え方は日本人とかなり違いますね。

 「確かに顔つきや体型は日本人にそっくりでも、彼らは幼い時から動物の生死やセックスなどを直接見て育ってきた遊牧民です。私は20歳そこそこであちらに留学し、農耕民との違いをたくさん体験しました」

 ――例えばどんな?

 「そうですね。例えば、言い寄ってきてくださった方を傷つけないように『子どもができたら困るから…』と婉曲に断ってみても、『産んでいけ。困ることはない』と動じません。婉曲な意思表示などは通じないようです」

 ――のどかで牧歌的な草原のイメージも強い国です。

 「しかし草原は、かつては“軍需工場”であり、家畜は武器でした。戦いには、再生産を担う雌よりも、再生産に関わらない去勢雄、言い換えればいつ死んでもかまわない雄が重要で、たくさんの雄が飼われていました」
 「また1950年代までは羊の毛を刈らなかった、従って毛織物を作らなかった、という長い歴史を考える上で象徴的ですね。最初から畜産業だったわけではないということです」

 ――ゲル(移動式天幕)はどのように作りましたか。

 「獣毛の生え変わる春と秋に地面に落ちた毛を拾い集めて熱と水で加工したものです。いわば建築資材であって、衣類ではありませんでした」

 ――1924年にモンゴル人民共和国が成立し、ソ連に次ぐ2番目の社会主義国となって以後近代化が進みましたが。

 「馬より速い乗物、多様な軍事兵器が出現したため、牧畜は軍事利用から平和利用に変わったと言えるでしょう。畜産物を都市の工場に出荷する畜産業化が始まったとも言えます。家畜の解体・処理工場をつくって食肉としてソ連に売るようにしました。それまでは家畜は生きたまま海外へ搬出されていました」

 ――集団化、協同組合化も進んだわけですね。

 「放牧作業というのは羊の頭数が多くても1人の番人でやりこなせますから、3家族ほどで1群をつくると、見張り当番が3日に1回となり、非番の2人は2日間、ぶらぶらすることができます。遊んでいるように見えても、それは一種の情報収集活動ですね」
 「そうした昔からの共同意識を利用しながら、社会主義政権は家畜の共有化、公有化を進めました」

 ――これまでの研究によれば、それに対する抵抗が強かったようですが。

 「所有頭数の多い富裕層は家畜をとりあげられるわけですから、抵抗するでしょう。しかし、もともと動産社会です。日本のような不動産社会と違って富は余り累積化しません。ひとたび雪害に遭えば富裕層であれ、貧困層であれ、多くの家畜が倒れて、いわば社会のリセットボタンが押されることになります。だから貧富の差は比較的小さく、そして圧倒的多数が貧困層でした。彼らが社会主義に共感するのはむしろ簡単だったでしょう」

 ――失うものがなかった人たちは革命を評価したわけですね。社会主義の時代には農地が3倍に増え、飼料の自給もできるようになりましたね。

 「ラマ僧がたくさん殺されるといった悲劇もありましたが、社会主義下では都市部での工業発展と農村部での農業振興、そして遊牧の畜産業化という3点がとりわけ評価されます。農業でも牧畜でも社会主義的集団化は協同組合を通じて進められました」

 ――1960年からは中ソ対立に巻き込まれました。

 「ソ連側についたモンゴル政府は中国を悪しざまに言い、このため国民の多くは、中国の内モンゴル人を同胞扱いしなくなるほどで今にいたるまで差別意識が残っています。早く誤解を解く必要がありますね」

◆カシミヤをめぐって

 ――話題を変えまして、モンゴルの重要生産品目であるカシミヤの話をお聞かせ下さい。

 「カシミヤ製造工場ができたのは社会主義時代の後半です。山羊の体には毛と毛の間に産毛のような柔かい毛が膚に密着して生えており、これがカシミヤ製品の原材料になります。この細い毛は刈れないので櫛状の道具で梳き採ります」
 「最大の難点は、これを産業化する工業技術です。結果的に、1981年当時、世界一のカシミヤ製造工場が完成しました。工場では送風で毛を選り分けますが、そうした技術は日本が提供しました」

◆ショック療法による改革

 ――89年からは社会主義体制の崩壊、解体が始まります。

 「集荷システムがなくなり、中ロ韓日米などの商社が原材料の買い付けにくるようになりました。軽くて高値ですからどんなに遠くまででも買い付けに来ます。首都のカシミヤ工場は原材料の入手に困り、生産量は急激に落ち込みました」

 ――私は1992年に現地を訪問した時に、政府が協同組合支援の形などで政策的に原材料を買い取り、せめて反物にしてはどうか、原毛で売ったのでは利益が買い取った商社に行ってしまうと提言したことがあります。

 「91年から国有財産の私有化が始まりましたが、カシミヤ工場だけは国営を続け、民営化されたのは最近です」

 ――モンゴルの変革はIMF、世銀の強い勧告によって徹底的でした。関税自由化なんかでも一挙にゼロにしてしまったのですからびっくりです。

 「酪農工場なんかの私有化も結果的にパイプを1メートルずつ労働者に分けるような形になってしまいました。それでは操業できませんよね。電線がなくなっているので、理由を聞くと『民主化されちゃった』と答えが返ってきました、当時はね。略奪的な私有化に対して民主化という皮肉な表現が与えられたのです」

 ――変革から18年、市場経済の現状はどうですか。

 「家畜をたくさん持っている人はみずから積極的に市場へ接近します。遠隔地にいてもカシミヤ以外は誰も買い付けに来ませんから、自分から首都まで出向いてきます。家畜の少ない人たちは地方に残り、協同組合の必要性を認識し始めています。現在のところ、牧畜業でも農業でも組合が機能していませんから、日本人が行って指導できることはあると思います。牧畜民家庭は30万戸です」

 ――環境問題はどうですか。

 「温暖化のせいで砂漠が広がっているという危機感があります。また、植生という自然資源に比べて、道路や駅や井戸などの社会資源が重要になっているという経済状況を反映して、インフラが最も整っている首都ウランバートルだけに人口が集中するという点でも環境は悪化しています。国の人口230万人のうち100万人が首都に住んでいますから、かなりの一極集中ぶりです」

◆都市問題も抱えて…

 ――ウランバートルの都市問題は深刻ですね。郊外には遠くからやってきた人達が住んでいるゲルが並んでいます。

 「市場を求めてやってきたのです。都市での生活が苦しくても、その苦しさを郷里に伝えたりしませんから、郷里に残った人たちが後から後から首都へ出てくるそうです」
 「一方、山羊は羊と違って成長の遅い草も食べるので悪い草地でも飼えます。カシミヤを採るために山羊を増やすことは草地の劣化につながります。そうした環境問題も抱えています」

 ――最後に、遊牧という自然を相手にする畜産業が中心のモンゴルの「市場経済」の方向としてどんなことが考えられますか。日本の援助も含めて。

 「モンゴルの肉や乳製品などは世界で最も安全な食品です。だって、あちらの家畜は囲いの中に入ったことがなくノンストレスでしょう。天然の草ばかり食べています。『モンゴルの畜産物は世界一』といった宣言をして輸出品に付加価値をつけたらどうでしょうか」
 「安全安心な食べ物なら値段が高くてもよいという志向が広がっていますが、世界一宣言をするには思想的に新しいビジョンを提示する必要があります。しかし、そんなビジョンを提示するモンゴル人はいても、政治家のなかには見当たりません」
 「とにかく草原を守っていくビジョンが必要ですね。家畜や人間がいないと悪い草がはびこります。羊は芝刈り機の役目も果たしています。放牧していないと草原が荒れていきます」
 「日本の援助としては、チーズやハムなどの製造技術を持ったOBたちが夏季限定で移住し、キャリアを生かして第2の人生を送るというのはいかがでしょうか」

 

インタビューを終えて

 今回はモンゴルの研究では第一人者の小長谷有紀先生の楽しいお話をお聞きした。
 モンゴルといえば、白い天幕のゲル、大草原と家畜の群、日本人とそっくりな人達というイメージである。成田・ウランバートルは直行便で4、5時間と近いが案外知られていない国である。
 2000年の遊牧の歴史の中で20世紀は、ソビエト、中国の大国にはさまれた社会主義国家で東西冷戦、中・ソの対立のなかでソ連寄りであった。1989年のソ連の崩壊で市場経済への移行をしたが、IMF、世銀の強い勧告でロシア型の「衝撃療法」のために、工業、牧畜業、農業が壊滅的な状況となった。
 小長谷先生によれば、集団農場や工場を個人に平等に分けることを「民主化をした」としたため、トラクターを1台、機械を1台、パイプや電線を1メートル単位で分けてしまった。
 自然と調和をした"モンゴル型市場経済"で豊かな草原の国となることを期待。(原田)

(2007.5.24)


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