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人形町らしい風情のある店頭
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開店と同時にお客さまがつめかける
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中村正男精肉部長
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◆100年超える歴史をもつ高級和牛専門の老舗
平日の午後2時ころ、行列ができるわけではないが、いつでも店内には2〜3人くらいのお客がいる。なかには背広にネクタイという恰幅のいい紳士もいて、高級和牛肉を中心に買い求めていく。東京・日本橋人形町の大通りからちょっと入った所にある人形町今半本店の精肉売場。これが老舗の力なのかと思う。
すき焼、しゃぶしゃぶの専門店として知られる「人形町今半」(高岡慎一郎社長)の歴史は古い。明治28年(1895年)に岡山から上京した高岡常太郎が当時一般化しつつあった牛肉に着目し、本所吾妻橋に牛めし屋を開店したことに始まる。人形町今半は、昭和27年に「今半日本橋支店」として開業。その後、浅草と人形町それぞれの発展をすすめるという先代の意思で、昭和31年に浅草今半と人形町今半という別会社となり、今日までそれぞれが順調に発展してきている。
人形町今半には、高級黒毛和牛によるすき焼・しゃぶしゃぶを提供する飲食店(10店舗)のほかに、高級和牛肉やTOKYO Xなどこだわりの豚肉を販売する精肉店(11店舗)、会席弁当をお届けするケータリング(2工場)、できたての惣菜を提供する「あったか惣菜」(3店舗)、さらにネットショッピング「自由市場」など、多彩な事業展開を行っている。
その精肉部の部長に最近就任したのが、全国食肉学校2期生の中村正男さんだ。精肉店は人形町本店以外は、日本橋高島屋、池袋東武、船橋東武、横浜高島屋、玉川高島屋、川口そごう、新宿高島屋、柏そごう、八王子そごう、心斎橋そごう本店(大阪)というように百貨店(デパ地下)に出店しているのが特徴だ。
◆職人の世界から時代のニーズに合った精肉部門へ
実は中村さんは、ある食品スーパーに勤めているときに、精肉部門を自営化するために全国食肉学校に派遣されて入校したのだという。当時はまだ街の肉屋さんも元気だったし、食品スーパーの精肉部門は昔気質の職人の世界だった。そこから脱却して消費者のニーズに応えられる売場づくりをし、キチンとコスト管理もできる管理者を育てるには、従来とは違う知識や技術が求められ、その基本を修得するために「東京生まれで、牛も豚もまったく知らない。包丁を持ったこともない」という中村さんが食肉学校に派遣された。
卒業後、そのスーパーで精肉担当者として活躍するが、小売業界の激しい競争のなかで会社が他社に吸収され新たな職場で悩んでいるときに、食肉学校で同期だった食肉卸会社の友人から、「人形町今半で、池袋東武の店を大きくするので、人を探しているが行かないか」と紹介され、人形町今半に入社したのが、いまから22年前のことだ。
それから約15年、中村さんは池袋東武店で精肉販売をする。池袋東武は「デパ地下ブーム」の火付け役ともなったデパートの一つでもあり、そのなかで「人形町本店と同じくらいの売上げを上げてきた」。その後、新宿高島屋店の立ち上げを担当するなどして、5年前から本店マネージャーとなり、今年、精肉部の部長となった。たまたま前の会社で新しい時代にあった精肉部門を確立するために、食肉学校に入校。会社がなくなっても人形町今半に入社でき、精肉一筋でこれたことに中村さんは感謝している。
◆店への信頼がBSEを跳ね返し売上げ増に
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積み重ねてきた経験が
消費者の信頼を得る
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平成13年にBSEが発生して以来、安全性の問題も含めて国内の食肉関連業界は大きく揺れ動いたし、さまざまな影響があった。特に精肉の販売や焼肉店などでは各社とも売上げが大きく落ち込み回復するのに相当な時間がかかった。人形町今半も一時、3割くらいに売上げが落ちたが、1年も経たないうちに回復。さらに前年を上回る実績となった。
それは「黒毛和牛のA4、A5のメス牛しか仕入れない」という創業以来こだわり抜いて厳選してきた老舗に対する消費者の信頼の表れだといえるだろう。
だが、老舗であっても伝統だけにこだわっているわけではない。冒頭でも紹介したように、ネット販売からケータリングまで時代のニーズに応えた事業を展開。そして、飲食店部門の仲居さんに大卒者を採用するなど、人材育成面でも新しい風を取り入れている。
◆学んだ基本を活かして努力を積み重ねること
精肉部門でも食肉学校からの研修生を毎年受け入れ「芝浦に連れていって解体からセリまで見せている」というように実践的な研修を行っている。そして卒業後、人形町今半に就職した人もいる。そのうちの一人は店のマネージャーにもなっている。
そうした後輩に中村さんは「基本的なことは学校で学んできているが、大事なことは、その基本を活かしていかに努力するかです」。さらに「努力する気がない、やる気のない人には教えても意味がない」とも。まだ昔気質の職人さんが多い時代に、苦労をしながら知識と技術を積み重ねてきた中村さんの経験を踏まえた重い言葉として受け止めて欲しいと思う。
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