前作『むら表現 落穂拾い2』(2002年7月5日)は、本紙2002年12月27日付け本欄で紹介した。本名は鈴木元彦。残念ながら昨年2月、68歳で急逝した。巻末に著者の略歴がある。また遺された夫人で本書発行人でもある鈴木美智子氏の「お礼のことば」もある。それらによれば、1959年春、北海道大学卒業と同時に、古里に帰り、秋田県農業改良普及員。その現場が鷹巣農業改良普及所だった。それ以来県立営農大学校などに異動もあったが、1997年定年まで、終始普及員だった。
さてこの作品、第1集(2001年3月16日発行)から一貫して「むら表現(ことば)」にこだわる。秋田県内の人々の日常表現を丹念に蒐集し、それを県北の地域紙「北羽新報」に連載した。だから新聞発行元との「むら表現」共同作業である。そこに変わらぬ意志を感じる。このむら表現は結局3巻全部で776になった。今回427が「〈当だればテンポ〉」。最終776「〈黙って降る雪ァ積もる〉」。前は「テンポ」は天保銭のことで、一種の騙しくじ遊び。また後は小言言う父より黙っている父の背中の大きさを喩えたとある。
このように、秋田地域言葉が豊富だから、即判らないものもある。またはっとさせられるものがある。これは民俗学の元祖柳田國男が判りやすく聞き書きした方法とは違う。どうして著者はこの方法を徹底したか。それは冒頭文章「再再現」にある『まんつ 初めに「村表現」への開眼。〈木越どドノグボ見だごど無ェ〉』から引こう。このフレーズは全くチンプンカンプン。実はこうだ。著者が初任地9年で、県北の田代町から転勤することになって挨拶した。そこで1度も行ったことのない集落・木越にふれた。そうしたら聴いた人いわく、「先生々々。先生が行がねがったやず無理も無。田代町さ住んでる俺達も(おらんだ)だって行ったごど無」。ドノグボとは共通語で「盆の窪」。頭を支える筋肉が両側に走っていてくぼんで見えること。
普通なら見れない部位だ。こりゃすごい比喩だと感動したことが始まりだ。
このように著者は村人に徹底して学ぶ。先生ではない。そこから比喩に潜む真実、時に痛烈な苦言を引き出す。
前作紹介で最終「426 〈馬の糞は古くなるほど効がね〉」を引用した。馬と牛の消化機能差を解説して、「馬糞は堆積されるとすぐ発酵して発熱するが牛糞は全く逆」と。その意味やまさに農業体験そのものに根ざす。
一般に歩く民俗学者ということばがある。宮本常一が典型であろう。その意味は、文献では判らないという含意がある。「普通の記者は汽車、真の記者は歩く」と同じことだ。こうして著者急逝によっても秋田県の「むら表現(ことば)」が散逸することなく、稲作現場などで営々と語り継がれることを望みたい。著者よ安らかなれ。
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