かつて日本には何という丁寧な暮らしがあったのだろう。1944年生まれの著者が記憶にある限りの思い出を、母上の手料理とそれにまつわる日常とで綴った本書にはそんな感嘆を抱かずにはいられない。
平成2年に88歳で亡くなられた母上の人となりやごく日常の暮らしぶりが、その手料理を通して哀惜をもって語られている。かつて日本の家庭には、節季ごとにその時その時に設えるべき食卓があり、それを楽しみに大人も子どもも集い日々をおくってきた。日本の敗戦前後から母上の亡くなるまでのそれが、詳細な献立と共にそれを囲む家族の顔つきまでも分かるような描写力で語られる。
戦中の裁判官から弁護士に変わられ早く亡くなられた父上の戦時中の息苦しさに思いを馳せ、今では日本を代表する俳優たる義兄の仲代達矢氏と姉上の宮崎恭子さんのエピソードや無名塾のこと、そして恭子さんより12歳年下の著者が共に囲んだ食卓を折に触れて手に取るように描き出してくれる。季節ごとに、物日ごとに、そして来客ごとに。
母上が残された古いノートの山ほどの献立は、永年テレビの司会者として、また演出者として、そして沢山の著書を持つ著者によって生き生きと再現される。詳細な献立はもとより巻末に写真まで付けて。あゝ、こんな器にこんな風に盛られていたのか、と著者の料理への愛おしさがより一層鮮明に伝わる。
そして随所にちりばめられた母上の美意識や哲学、生き方が、それらを失いつつある私達のこの頃を気づかせてくれる。本書は、かつて都会には都会の、農山漁村には農山漁村の地方色ふんだんな食卓があり、それを成り立たせる価値観があったこと。もちろん階層性は今よりずっと鮮明であったはずだが、日常生活が私達日本人の文化の基礎を形作っていたことを鮮明に思わせる。文化は遠い美術館や古都にだけあるのではないのだ。
都市化とか平準化とか商品化とかという名の便利さの追求は、先ずもって美しくないと痛感させられる。とはいえ、そこに帰りたくても帰れないのも現実である。本書に啓発されて日本人の「暮らし」の丁寧さを精神だけでも大切にしたいと思う。それに支えられる暮らしこそが文化の根底をなすとすれば、今私達は食事を通して何を子供達に家族に伝えられるかを考えて、少なくてもそそくさと食事を済ますことだけはすまいと思う。
それにつけても夏が待ちどおしい。〈ウリの雷干し〉は美味しそう、是非食べてみたい。今夏は必ずつくってみよう。
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