農の現場と地域からこの国のあり方を問う
ベルリンの壁が崩壊して18年、アメリカ型のグローバリズムによる政治・経済の普遍化が図られようとしたが、世界各地で失敗に終わろうとしている。中南米、アジア、ヨーロッパで各国がそれぞれの歴史や置かれている条件を踏まえた国づくりに向かいつつあり、世界は多極化し、地域共同体の形成に動きつつある。
双子の赤字を抱えて、ドルの地位は低下しつつある一方で、人口の増加と中国、インドの経済成長や、バイオエネルギー需要は、生存の基本物質である食糧やエネルギーの価格の上昇を招いているが、これに、庶民の暮らしなど眼中に無いファンドの投機が加わり資源全般の高騰が続いている。また地球温暖化は食料生産や居住条件に様々な影響を加えつつある。世界は不安定性を増しつつある。こうした世界の変化を見るとき、本書に引用されたアメリカ大統領の言ったという言葉「食料を自給できない国を想像できるか。それは国際的な圧力と危険にさらされている国だ」が現実味を帯びてくる。
食料自給率が40%を割り込む中でも、WTOやEPA交渉となるや輸出のためなら、さらに自給率が下がっても止むを得ないといった議論が、財界や政治の中枢から出てくるのは占領以来の対米依存が身に染み付いているこの国の特異性なのか。
著者は、このような状況の変化を踏まえつつ近年展開されつつある農政や、経済財政諮問会議に出された財界の意見に対し、品目横断的政策、海外依存型食料安保論、平成の『農地改革』、選別的担い手育成、農協解体などについて、政策の出された経緯をたどりながら批判を展開している。それぞれの項目は、その時々に時論として書かれたものであるが経過がたどられていて分かりやすい。
著者が農政の矛盾を突き批判しつつ言わんとするところは農政の全面転換、「食料自給率の向上という政策目標を再確認し、全ての政策をそれに向けて再構築する」「そのためには全農家を対象に増産政策を講ずるしかない」である。しかしその主張を裏付けるものは、この本の中で取り上げられている、農の現場と地域で行われている人々の地域を豊かにしたいという取組や活動である。
それは例えば、財界が主張する「株式会社の土地所有」について論ずるとき、南九州の株式会社形態の農業生産法人をいくつか回った経験から「これらの株式会社のほとんどは農地の所有権を取得する気はない。…概して事業拡大に一心不乱で農地になけなしの資金を固定する気はなく、中央から大企業が地域農業に参入することに警戒的である」との現場の状況を押さえ「にもかかわらず、財界が農地所有権を要求するのは、少なくとも論理的には生産手段としての農地ではなく、金融資産としての農地に着目し、農地を金儲けの手段にしようとすることだと言わざるを得ない」といった展開に表れている。中央の金融業の要求ではあっても、地域の経済・農業を守ろうとする真面目な要求ではない。国のあり方をめぐっての対立軸が合わせて示される。
担い手を論ずるときも、農政の「農業の担い手」に対し、地域の農業と暮らしを守る視点から、「農業生産の担い手、農作業の担い手、管理作業の担い手、農村社会や文化の担い手、地産地消や食農教育の担い手等々」が対置される。これらの人々がいるから地域で農業がやっていけるのだ、水田も保全されるのだという主張である。
また集落営農についても、「集落営農の多面的機能は計り知れない」として「定住条件の維持、高齢者や女性の活性化、生きがいづくり、医療福祉のコスト削減等」等をあげ、地域ぐるみの取組であることや、生産よりむしろ地域に暮らすことをメインテーマとしていることから多面的効果があるとしている。農村の現実は農業生産の効率よりも、定住していけるかどうかが問題なのだ。少なくとも、その方向に農政が向かわなければ、自給率向上も、多面的機能による国土保全も飛んでしまうということの提示だろう。
農協解体論について、農政にとっての農協の利用価値は、40万の経営体が育成されれば終わる、として「農協は今や、自らが、政府にとってではなく、農家・地域住民にとって何なのかを明らかにしなければならない段階にさしかかった」と指摘する。そのうえで、これからのありかたとして「組合員や地域から必要とされる農協づくり」として営農と生活の両面をにらんだ「農的地域協同組合への道」を提唱する。組合員の世代交代と減少、準組合員の増加という組合員構成の変化の只中にあって示唆に富む提案である。 |